いつかの私だったあなたへ

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

日常のなかの非日常

 

 

 

降るのか降らないのかはっきりしない雨の日が続いて、呼応するように自身の生活もメリハリのないものになっている。

 

 

 

10月。台風が直撃した。

伊勢湾台風並みの強さだったらしい。深夜に暴風域に入ると家が停電した。朝になって雨戸を開けると穏やかな光が目に飛び込んできた。カーテンが勢いよくばさりと揺れた。風はまだ強かった。

信号はすべてついていなかった。道が交差する場所ではみんな様子を窺いながらある程度の秩序を保って進んでいた。途中、大通りの道の真ん中で誰かが手を振っていた。徐行しながら目をやると、誰かが倒れていた。僕からはすこしハゲかかっている白髪頭しか見えなかった。全身の力が抜けていて、ぴくりともしない。数人の男女が取り囲んでいた。ただ立ち尽くしている者もいれば、倒れている人をのそぎこんだり、立ち話している者もいた。

会社へはいつもより早く着いた。シャッターがボロ雑巾みたいに道路に転がっていた。上司ひとりしか来ていなかった。それから何人か出勤してきて、とりあえず被害の確認と修復をすることになった。会社のある地区も電気は復旧しておらず、結局10時で退社した。

 

 

 

11月。転勤が決まった。

そのことを友人に話すと「使えないから?」と血も涙もないことを平然と言われ、「んなわけあるか!」と大声で否定したものの、自分が役に立っているのか本当のところはわからない。与えられた最低限の業務はきっちりこなしていているけれど、じゃあ自分がいなくなったら困るかと問われたら、そんなことはないと断言できる。

転勤の理由はこれまでの事業が終わり、新規の仕事もないから消去法で他の工場へ移ることになった。

また一からやり直しだ。これまでと全く違う労働環境で何も知らない仕事をすることになる。転勤先のことであまりいい噂は聞かない。あくまでも噂だから信用できるかどうかは別として、だったら転職してしまおうかとも思う。新しい仕事、労働環境になるなら、ここに留まろうが辞めて他に移ろうが大した差はない。むしろ今よりいい条件の会社へ移ったほうが、気持ちも新たに頑張れる気がする。

 

 

思えば、ひとつの場所にずっと留まっていた経験がない。友人たちのように同じ会社に十何年も勤めたこともないし、自立を認められた年齢になってからは、つい最近(といっても2年前)までは地元を離れて暮らしていた。ここに戻ってきたのだって、また違う場所で暮らすための係留地点としか思っていないところがある。

これまでずっと、どこかひとつの場所に留まることができる人たちに憧れていた。愚痴や不満をいくら並べたてようが、結局はおなじ場所に居続ける。世間一般ではそれを普通にできる人たちがいるけれど、実はかなり難しくてすごいことなんだと、誰も言わないし気がついていない。良い悪いの話ではなく、とにかくそれはすごいことなのだと、同じ場所に留まることができない僕は知っている。

 

 

 

 

 

「自分の奥さんが浮気してるの知ったら、すぐには言わない。知らないフリして遠回しに責めてく。精神的に追いつめていく」

「やり方が女じゃん」

 

 

夜風にまじる記憶

 

 

 

 

年を取れば日々の変化に鈍感になると思っていた。

 

若い頃、といっても現代の寿命から考えれば若い年代に属するけれど、「まだ若いから」という理由で失敗や挫折が許されなくなった年齢になった今、若かったころの自分が「年を重ねていくたび、いつかこういう風にものごとを捉えていくのかもしれない」と漠然と想像していたようには、少なくとも今の自分はそう感じていたり考えたりはしていない。

 

 

最近のこと。会社から家へ帰る途中、車の窓を開けて運転しているときだった。速度を上げていけばいくほど吹きこむ夜風が熱のこもった車内を爽やかな空気に変えていた。残業で遅くなったせいか道は空いていて信号にもそれほど引っかからなかった。HHDには新しい音楽をしばらく入れておらず、数年前によく聴いていたアルバムをかけていた。

肌を撫でる夜風にまじった新緑の匂いを嗅いで音楽に耳を傾けていると、なんだか急に切なくなった。なんで切なくなったのか意味が分からず、理由を自分自身のなかに探してみてもこれといった明確なものは見つからなかった。

行き場のない切なさだけが肥大して、家に着いてからも突然湧きでた感情を持て余していた。

 

悲しみのはしっこはいつも   忘れられてほっとかれる

いつのまにか何事も  なかったような空気だ

夜明けのホラーが好きさ  救われたような気がして

その後みる夢がどんな  ひどいものだったとしても

 

The Birthday 「ROKA」

 

 

たぶん、これはなんとなくでしかないけれど、切なさの根幹にある記憶を僕は忘れてしまっているのではないだろうか。それを身体だけが皮膚感覚でおぼえていて、頭ではわかっていなくても身体がその記憶を呼び覚まし、思い出していたのかもしれない。それか、これまで生きてきた時間のなかで蓄積された感情なり思考の総体が、季節の変化をきっかけとして形を成さないまま蘇ってきたのかもしれない。

どちらにしろ、過去が苔のように身体に定着し、日々の悲しみや喜びが記憶から忘れ去られるには、長い時間が必要なのは確かだ。

 

 

ある年齢を境に、雨や台風が近づいてくると頭が痛くなるようになったし、寒さや暑さにも体調が大きく左右されるようになった。身体が劣化すると周りの変化に敏感になるというある種の矛盾を抱えたまま、僕の身体はもう、過去を頼りにして生きようとしているような感じがする。過去を拠りどころにして、今日を生きる。それはただの勘違いなのかもしれない。けれど、未来への希望だけを胸に抱えて生きていたあのころとは、どこか違う。

 

 

 

彼女と海へ行った。

本当はハンバーガーを食べに行ったのだけれど、店はもう閉まっていた。それが分かったのは駐車料金を払った後だったので、どうせならとそばにある海にすこしだけ立ち寄った。

波打ち際に近づいてみると、堤防に当たる波が「ぷかぷか」という音を立てて弾んでいた。

それまで「ぷかぷか」という単語は小説のなかでしか目にしたことがなかった。たとえば、『船がぷかぷか浮いている。』という文章を読んだときイメージするのは、船が水面で揺れながら浮いている様子だけで、そこに音が付随することはなかった。「ぷかぷか」は擬態語だと思っていた。それが実は擬音語だったことを知り、僕は興奮して、

「波がぷかぷかいってるんだけど!」

と叫ぶと、彼女は笑って

「今さら知ったの?」と、からかうように言った。

約2年間、海に囲まれた環境で暮らしていたのに、「ぷかぷか」なんて音は耳にしなかった。あそこの波はいつでも強かったし、夜空一面に広がる星や海の向こう側で騒がしく明滅するネオンに気を取られていたせいかもしれない。

日が沈もうとしているなか、底の小石が見えるほど透き通ったさざ波のたてるぷかぷかを耳にしながら、初めてその音を体験し、実感した喜びと興奮にひとり昂ぶっていた。もちろんアインシュタインやキューリー夫人が成した大発見ほどではないにしても、個人的な常識を変える出来事に出会えた素朴な幸福感で満たされていた。死ぬまでそういう体験ができそうな予感に打ち震えていた。

しばらく海を眺めてからご飯を食べに他の店へ向かった。

 

 

 

 

 

 

「もし徴兵制がはじまったらどうする?」

「行くよ」

「自分の息子が行くってなったら?」

「行かせるよ」

「戦争に行くかもしれないんだよ?」

「まあ、しょうがないんじゃない?」

 

 

 

 

 

 

 

月まで

 

 

 

 

今夜はどうしても眠れない。

月の光だけをたよりに歩く坂道。夜の木漏れ日。空気が淡い緑色になるのは、満月の夜だけ。波の音、対岸のネオンライト。探してるのは夢?それとも愛?君の未来は明るい?僕の表情は固い。退屈な日々は麻薬だ。無気力な目で彼らを見る。思考のパイプカット。お金だけで幸不幸が決定する人生に乾杯。唯物論。即物的。子どもの喚き声。

今夜はどうしても眠れない。

明日になればまたマトモになる。狂いきれない夜たちへ。

カーテンコールを待ち望んで。

 

今夜はどうしても眠れそうにない。

 

 

 

 

 

日々なんとなく

 

 

台風一過の朝、出勤していつものように会社の階段をのぼっていたら唐突に秋の匂いがして、なにかほかの感情が生まれるよりもまずいきなりすぎて面食らった。

 

 

 

 

そのときは9月に入って間もなかった。

例年どおりならまだ残暑が厳しい時期で、カレンダーの絵や季節限定の新商品のパッケージやファッション誌の表紙を飾るモデルの服装はすでに秋の装いではあるけれど、それはあくまでも先取りという形で世に出回っているわけで、本当ならまだ秋なんて気配すら感じないほど遠い存在のはずだった。

 

 

 

 

秋がはじまったばかりのときの匂いは、これといった明確なものがあるわけではない。それはたとえば花の香りだったり、前を歩く人の香水だったり、焼きたてのパンの匂いだったりする。少し冷たい風に混じる匂いと空気の境目がくっきりと分かれているような錯覚を秋のはじまりは感じさせる。爽やかさとは違う、湿気のなくなった乾いた空気のなかで日常の匂いが鮮明な輪郭を持つとき、季節が夏から秋へと移りつつあることを僕は意識する。

 

 

 

 

 

 

 どうでもいい話がしたい。ここじゃないどこかの話とか。愚痴でもなく、自慢でもなく、噂話でもない。過去として記憶に残るわけでもなく、未来に明るい光が射すわけでもない、どうでもいい話。宇宙のはじまりとか、死んだらどうなるだとか。昨日も明日も忘れて、ただ喋る、頷く、笑う。どうでもいい話。

 

 

 

 

 

 

 「ねえ、運命って信じる?」

「それ、前にも誰かに聞かれた」

「誰に?」

「さあ、誰だったっけ」

 

 

紫陽花の葉にカタツムリはいない

 

 

 

気づけばもう6月。暖かさが暑さに変わり、言うほどにはそんなに降らない梅雨が始まろうとしている。梅雨は別に好きじゃないし、嫌いでもない。紫陽花は少し好きだ。点描画っぽくて、雨の季節に咲くのに陽の光が似合うところがいい。

 

 

 

 

自分の部屋の網戸が破けている。しばらく誰も使っていなかったからずいぶんと放ったらかしにされていた。長い年月を経た網戸の網はプラスチックの柔軟性を失っていて軽く触っただけで薄いせんべいみたいにバリボリと砕け落ちてしまう。

危険だ。暑くなって虫が多くなるこの季節、網戸に穴が開いているということはすなわち死を意味する。蚊はもちろん、いったいどんな奴が侵入してくるかわからない。ハエ、ムカデ、ゴキブリ、そしてよくわかんないけど足がいっぱいあるヤツetc……とりあえず虫除けベイプは設置してある。これでひとまずは安心だ。

「いや、そういうことじゃなくて網戸を交換しろよ」と思ったそこのあなた、正論だ。正論すぎてぐうの音もでない。「冷房でもいいんじゃない?」と思った優しい君、確かにそうだけど僕は冷房よりも自然の風のほうが好きなのだ。カーテンを膨らませては揺らす、ちょっと生温いけど汗をかいた肌には涼しく感じるあの夏の風が。さらに言えば、夜、昼間の蒸し暑さをかすかに引きずった空気のなかを散歩するのが好きだ。それは都会でも田舎でも変わらない。

 

 

 

 

 

 

 4月から2ヶ月が経った。

自分にとって4月になにか節目となるような出来事があったわけではないけれど、3月から働き始めた会社へ向かう通勤途中の景色が4月から一変したのをよく覚えている。

 それまで春休みだった学生の姿を大勢見るようになった。大人に先導されて横断歩道を渡る小学生の行列や、下り坂をブレーキなしでかっ飛ばしていくボウズの中学生、朝からイチャイチャしながら登校している高校生のカップルなど、朝の歩道は学生であふれていた。

 

 

4月のはじめ、彼らは俯きながら歩いていた。サイズの合っていないブカブカの制服に身を包んで、真っ白な運動靴の履き心地が心許ないのか、覚えたての通学路を一歩ずつ目で確認しながら辿っていく。ひとりが顔を上げずに隣を歩く同級生に話しかける。「部活何にするか決めた?」「陸上部にするかもしれない」「◯◯、バスケ部じゃなかったっけ?」「そのつもりだったけど、部活紹介のときカッコよかったから」

たぶんこんな会話をしているであろう彼らの顔は曇っている。僕らが忘れた、あるいは通り過ぎた悩みや不安を抱えて、同じような境遇にいる者がすぐ近くにいることにも気がつかず、自分の真っ白な運動靴と舗道のかすれた白線が時折重なるのだけをただ見つめている。この悩みや不安が永遠に続くものだと、こんな気持ちは誰にも理解されないんだという顔をして。そんな彼らは、ある意味では正しいし、ある意味では間違っているのだと、大人になったあなたならきっとそう思うだろう。

 

 

 6月。彼らはもう足元を見つめていなかった。真っ白だった運動靴はすこし茶色がかっている。隣にいる友達とふざけあい、小突きあって、大きな口を開けて笑っていた。

そんな姿を僕は車の窓が見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「もし死ぬ前に、もう1回だけあの頃に戻れるとしたらどうする?やっぱり戻る?」

「俺はいやだなあ」

「え?なんで?」

「死ねなくなるもん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の出来事。

 

 

 

 

また風邪をひいた。

1回目は今月のはじめころ、友人宅で映画鑑賞をしたすぐ後のことだった。連日の夜更かしが原因だったのだと思う。喉の違和感が痛みに変わり、あぁこれはマズイやつだと思う間もなく悪化。母の小言を背中に聞きながら病院へ行った。

幸い、熱はなく喉の痛みと悪寒だけで済み、薬を飲んだらどんどん良くなっていった。

それから、大阪にいる友人が地元に帰ってきたので遊んで、そのときはまだほぼ治ったくらいでまだ喉に異物感はあったものの、カラオケで3時間以上歌い続けて、新たな門出に立つ友人のために我が身を省みず弱った喉を酷使した。

 

その結果、ぶりかえした。

 

いや、これが本当に原因なのかはわからないけど、再び喉に痛みが戻り、体が寒くてしょうがなかった。1回目ほどひどくはなかったとはいえ、1ヶ月のほとんどを体調不良で過ごすと心が暗くなる。慰めてくれのは、夜、窓を静かに叩く雨の音だった。そういうところは、今も昔も変わらない。

 

 

 

 

 

「カルテット」が面白かった。過去形なのは今週でもう終わってしまったからで、テレビドラマを毎週楽しみにしながら観るのはすごく久しぶりのことだったので、すこし寂しい。

友人のひとりもカルテットを観ていて、おいしいお好み焼きをつつきながらドラマについて会話が弾んだ。そのなかで、アリスという登場人物の話題になった。

アリスはカルテットのなかでも群を抜いて異質で強烈な人物だ。

笑っていても目が笑っていないのが特徴で、人付き合いは打算のみで動き、自分の利益になるならどんなことも躊躇なく行うというとんでもないサイコパス野郎なのだが、それを吉岡里帆が演じていて、2話か3話あたりで満島ひかり演じるすずめちゃんに男の口説き方を指南するシーンは、あまりにふたりが綺麗でまぶしくて、なにか見てはいけないようなものを見ている気分になった。家族とテレビを観ていたら過激なラブシーンが流れだしたときのような、変にそわそわするあの感じ。端的にいうと鼻血が出そうだった。その後、すずめちゃんの弱みを知ったアリスはそれにつけこんで恐喝まがいのことをするのだけれど。

それで、そのアリスの話になったとき、当然あの女まじでヤバい奴だよな〜という感じで始まったのだけれど、すると友人が苦笑しながら「でも、俺ちょっといいなあって思っちゃったんだよねえ」と言うので、僕は思わず「まだ懲りないの!?」と叫んでしまった。

 彼の恋愛遍歴を知っている者なら、誰だって叫んでしまうだろう。そして、それがただの冗談とか、キャラとして好きだけど実際に付き合うとしたら無理という生半可な好意とかではなくて、たとえ吉岡里帆ほどのビジュアルではなくても、そういう、本当の意味で誰のことも好きならないような女のことを本気で好きになってしまうのも、彼の恋愛遍歴を知っている者なら、それが正直に感じた言葉であるかが分かってしまう。

 その言葉を聞いて、僕はすごく心配になった。

率直に言って、彼には幸せになってほしい。彼の思う幸福を手にしてほしいと、人付き合いが悪く基本的に人を好きになれない僕が、この人は幸せになってほしいと恥ずかしげもなく願える数少ない友人のひとりが彼だ。

「ああいう子なんだけど、俺に対しては一途な子がいい」とロマンチストな彼は言った。

「そんな子はいない」と僕は一蹴した。

したにはしたけど、できることならそんな子がいてくれたらいい、と思ってしまう僕も同じくらい、ロマンチストなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

ラ・ラ・ランド」を観た。

観た2日後、もういちど観に行った。

また観るつもりだ。

感想は書きたくない。 

 

 

 

 

 

大阪の友人が夢を諦めた。

 僕はまだ諦めない。

これは意地なのだろうか?

とりあえず、やっていくしかない。

 

 

 

 

 

 

新生活が始まった。

 

 

覚え書。

 

 

 

 

 

メモ。

 

 

いつかの幸福が現在を苦しめるなんてこと知っていたらきっともっと楽なほうを選んでた。なくなる幸福なんていらなかった。幻想に生きてずっと憧れを抱いたまま死んでいけばよかった。死んでいきたかった。もっとちゃんと嘘をついてほしかった。と友人が言う。巨きな栗の樹の下で。手をつなぐふり。キスをせがむふり。大好きなふり。誰も真実になんて興味ない。誰かではなく、あなたの最愛のひとになりたかった。「あゝ、お前はいったいなにをしてきたのだ」と、吹き来る風が私に言う。汚れちまった悲しみに。ゆやーんゆよーん。錆びたブランコが揺れる音。西陽の差し込む時刻にいつも死にたくなるのはなぜ?未来とは希望のことだ。希望とはなにかを愛することだ。なにかを愛することは、なにかを愛せることは幸福だ。幸せになりたかった。ただ幸せになりたいだけだった。あなたとわたし。巨きな栗の樹の下で。と、友人が言う。あの日僕は小さなサインを見逃し続けた。夢も希望も消え失せた。うたかたの日々。虎になって月に吠える。青い車に乗って荒野を行く。ありきたりな景色が待っているとしても。迎えてくれるひとがそこにいなくても。あの街がまるごと幻だったとしても。いつかあのときは悲惨だったと笑いあえるように。と友人が言う。たまには未来の話をしよう。タイムマシンに酔って。明るい未来の話。まだ誰のものでもない僕らだけの未来。未来とは希望のことだ。たとえそれが人生のつく嘘や勘違いだったとしても。あるだけマシさ。明けない夜があることを願って。バイバイ。さよなら。またね。

 

 

 

 

 

 

 

「たとえば、そうだな、君は数年前の自分が今の自分とまったく同じ人間だと思うかい?そういうこと考えたことある?ないなら考えてみて。あるならそのとき出した答えを教えてほしい。ぼく?ぼくはどう思うかって?それがわからないから君に聞いてるんだ。細胞はある一定の周期で完全に入れ替わるというけど、最近の科学で細胞のひとつひとつにそれまでの記憶がインプットされていることがわかったらしいし、かといってじゃあ記憶がその人をその人たらしめている決定的な要因かと言われれば疑問だし、たとえば外見は年を取れば当然変わっていくよね。皺が増えたり、頬がたるんだり、ハゲたり、痩せたり逆に太ったり。でもそれは身体の変化であって、自分が自分でなくなったことにはならないような気がするんだ。ただね、時間の連続性ってやつのせいで僕らは生まれてから死ぬまでずっと存在している気になっているけど、本当は僕らは過去の僕らを絶えず殺しながら存在しているんじゃないかってときどき思うんだ。殺すなんて物騒な言葉を使っちゃったけど、どちらかといえば書き換えるって感じかな。更新する、過去の自分に今の自分を上書き保存するって比喩が一番しっくりくるかも。上書き保存だなんて表現いかにも現代人っぽいよね。過去の自分に今の自分をセーブしていく。保存先は変わらないけどデータはその都度減ったり増えたりして。だとしたら数年前の自分はまったく同じ人間だと言えるだろうか?昔のデータを引き継いでいるとはいえ、容量や内容が少しだとしても確実に変わってはいるのに?いや、わかってるよ。これは比喩だ。比喩だからこそこれはぼくが求める答えにはならないし、そもそもデータなんて言葉は曖昧すぎる。それにこの考えにはひとつ問題がある。魂だ。この考えは唯物論的すぎて魂の概念が欠けてる。魂なんて今のご時世に前時代的かもしれないね。人類が創り出した最もロマン溢れるフィクションなのかもしれない。でもこいつは無視できないよ。理性とか感情とかの次元ではなくて、誰かが死んだとき、身体はそこにあるのに、ただ眠っているようにも見えるのに、そこにあったなにかがたしかに失われた感覚というものを、ぼくは無視できないんだ。もし魂があるんだとしたら、魂がぼくをぼくたらしめているのなら。でも、これもひとつの比喩にすぎないのかもしれないね…やっぱりぼくにはわからないよ。それで、君はなにか答えはでた?」