ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

僕らにしかわからないし

ねぇ、くだらない話をしよう
赤いまぶたが また熱くならないように
シリアスな展開なんて 僕らには似合わないって
下品な笑いで 朝陽をむかえよう

 

君の悲しんでいる顔を 僕はもう忘れてしまいそうだよ

深夜のカラオケボックス アップルパイ 彼のスクーターにつかまって この日々が永遠に続くようにって 祈る時間さえ惜しかったね

 

ねえ、真面目な話をしよう
またいつもの生活へ 戻らなくちゃいけないから
この世界とわかりあえないのは 僕だけじゃないって
あのころみたいに ちゃんと教えてよ


君の嫌いな言葉を 僕は使ってしまうかもしれない

深夜のプールサイド 青くさい哲学 立ち止まっては去っていった人々に 僕らの姿はどう映ったかなんて 気にする暇さえなかったね


ねえ、会って話をしよう
君さえよければ 僕といっしょに過ごす気が すこしでもあるなら
あのころみたいに あのころとはちがう 君と僕で 夜が終わるまで 終わることのない 話をしよう

金玉踏めば夏の終わり

 

下の娘が生まれて半年が経とうとしている。

娘たちを基準にして時間の経過を考えてしまうのを、自然に受け入れてしまっている自分に今気づき、驚いている。

ふたりの娘は元気すぎるくらい元気だ。元気なのはいいことだ。病気がちになるくらいなら、元気すぎる娘がソファから飛び降りた拍子に、私のキンタマを踏むことくらい、別に我慢できる。

と書いていて、いや、ちょっと違うぞと、私は気づいた。娘が元気なのと、私のキンタマが踏まれることに、因果関係はないのでは、と。娘が元気だからといって、じゃあ世の父親はみんなキンタマを踏まれているのかと。いや、決してそんなことはないはずだ。では、私のキンタマが踏まれることによって、それがなにか神事的な作用を及ぼし、娘の健康が祈願され、私がキンタマの痛みに苦しみ悶えることによって成就しているとするならば、私はこの痛みを甘んじて受け入れよう。しかし、現実は違う。絶対に違う。だって聞いたことないもん。キンタマ踏まれて娘の健康祈願するなんて。なんだよそれ。なんで娘の健康祈願するのにキンタマ踏まれなきゃいけないんだよ。おかしいだろ。

だから、娘が元気なのはいいことだけれど、キンタマだけは踏まないでほしい。

 

 

エアコンのない環境で働いているせいか、暑さが遠のいていくのを肌で感じる。夜には鈴虫が鳴くようになった。これからだんだんと夜が長くなっていくのだろう。体を軽くする涼しさとともに、陽の光も希薄になり、眩しさだけが瞼の裏に残る、意味のない切なさが香る秋がもうすぐやってくる。昔ほど楽しみに思えないのは、なぜなのか。それは秋になったら分かるのかもしれない。

 

 

 

 

 

夏と秋の中間地点

10月。

陽射しの熱は衰えず、空気だけが冷たく乾いている。静かな風の感触が心地いい。夜には、秋の涼しさだけが残る。今年の夏は、蝉だけが騒がしかった。いつまでたっても、旅行には行けない。

 

 

 

最近また、小説を書いている。毎日、妻に頼んでひとりの時間をつくり、あーだこーだ考えながらスマホとにらめっこしているせいか、前より肩が凝っていると、妻に言われた。なぜ今なのか、自分でもよくわからない。ただ、書き続けている。掌編が7作できた。妻はおもしろいと言ってくれた。調子に乗って友達にLINEで、「よければ感想聞かせて」というメッセージ付きで送ってみた。それから1ヶ月は経つけれど、返信はない。面白くなかったのかとなんだかモヤモヤするけれど、1ページ分の掌編の感想なんて書くほうが難しいよな、と思いなおし、まだ書き続けている。思えば、また書くようになったのは長編の構想が浮かんでからだった。私はロードムービーが観たくなって、でもなんだかしっくりくるものがなくて、だったら自分で書いてみようと思ったのがきっかけだった。だから、今書いている小説は、旅の物語になる。文体はなるべく凝らず、複数の人物の視点で旅の過程を描いていく。これまで観たロードムービーへのオマージュも取り入れつつ。そんな感じで、毎日うーうー苦しみながら楽しく書いている。そういえば、苦しくて楽しいということがあるのを知ったのは、創作を始めてからだった。

 

 

 

とりあえず、できたらまた、懲りずに友達に送ってみることにする。

去年の

 

8月。

暑さが充満している。ただじっとしているだけでも息苦しい熱を体がまとっているように感じる。アイスクリームみたいに溶けそうだ。いっそのこと溶けてしまったほうが楽なんじゃないかと思うくらい、年々ひどくなる夏の猛暑に嫌気がさしている。

 

 

 

娘が生まれてもう4ヶ月が経った。

早いのか遅いのか、最近、時間が経つということに対してちゃんと考えてないのと、そんな余裕もないからか、よく分からない。

娘は寝返りができるようになった。けれど私はまだ見たことがない。妻が撮った動画ではあるけれど、その現場に遭遇できずにいる。いつになったら見れるのか、ヤキモキした気持ちで過ごしている。この連休中にはぜひともお目にかかりたい。

 

 

…と書いた数時間後、娘は立て続けに寝返りをしまくり、私は驚きのあまり呆気にとられた。

 

 

 

娘と過ごす時間の中で、思うことがある。

どんな人間も、ひとりではなにもできなかった時期がある。おしっこやうんこをすればオムツを替え、お腹が空けばミルクを飲ませ、眠たくなったらあやしてくれる別の人間が必要だった時期がある。その行為は無償の愛情、といってしまうと大袈裟だけれど、それに似たものがなければできないものなんじゃないだろうか。仮に金銭が干渉していたとしても、その行為自体になにかしらの愛情めいたものがなければできないと、妻と娘の世話をしていると思う。

逆に、今自らの足で歩いているみんながそういう時期を経てそうなったと思うと不思議だ。最近は、誰かと話しているとき、ふと、この人も娘と同じ時期があったのかと考えると、おかしくて笑ってしまいそうになる。バカでかいダミ声で部下を一喝する部長も、いつも眉間にシワを寄せて不機嫌そうな課長も、TVの中でシュールな演技をする俳優も、国民を省みない政治家も、これまでも、この先もずっと孤独なんだと感じていたいつかの私も。

 

親がいなくても子は育つ。と会社の人に言われた。この格言を考えたのはきっと男だろう。

娘はいずれ歩きだす。寝返りさえも一生懸命しているこの子を見ていると想像さえつかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サルトルは読んでない

 

 

 

1月。一昨年になった胃腸炎が再発しないか不安になりながら年末年始を過ごした。

忘れもしない、あれは1月5日、彼女(今の妻)との交際5ヶ月記念日だった。イルミネーションを見に行き、そこで彼女に内緒で買ったペアリングをプレゼントした。彼女は涙ぐんで喜んでくれた。完璧だ、完璧な1日を彼女に演出できた、と私は心の中でガッツポーズをした。最高にロマンチックな雰囲気で駐車場に戻ると、胃のあたりにすこし違和感を覚えた。彼女の家へ向かう車中、和やかなムードとは裏腹に胃のあたりの違和感はだんだん気持ち悪さに変わっていき、不穏な空気が私の胃だけで起こっていた。彼女は微笑みながら指にはめた指輪をいじったり、指輪を買った経緯を語る私の話を楽しそうに聞いていた。この気持ち悪さは、きっと寝ていないせいだろう。この日まで友人の家に入り浸り、昼夜逆転していた私にとって、朝からのデートは身にこたえた。寝ればこの気持ち悪さも治る。そう言い聞かせて、自分を励ましたけれど、途中どうにも我慢できなくなり、

「なんか気持ち悪い」

と彼女に告げた。「え?大丈夫?」そう言って心配そうに見つめる彼女の表情に罪悪感を感じながらも、気持ち悪さを伝えたことで健康な自分を偽らなくていい安堵感と余裕が生まれ、ほっとした。しかし気持ち悪さはなくならない。

「コンビニでちょっと寝ていくわ。そしたら治ると思う」

家の前で彼女を降ろし、私はそのまま近くのコンビニの駐車場に車をとめ、座席を倒し寝る態勢に入った。しかし眠気よりも気持ち悪さが先行してなかなか眠ることができない。気持ち悪さは次第に嘔吐感を連れてきて、はやく吐け、はやく吐け、とせっついてくる。もう限界だ。コンビニのトイレに行って吐こう。トイレまでの道のりを思い浮かべ、最短距離で小走りに向かう自分を何度もイメージした。予習はバッチリだ。よし、なんとか行ける。覚悟を決め、運転席のドアを開けて外に出たとき、道の向こうから走ってくる彼女が目に入った。

「なんでぇ?」

予期せぬ出来事に、人生で1、2位を争う間抜けな声がでた。

その瞬間、車内で練りに練った緊張感は一気に解け、口から数時間前に食べたものが蛇口をひねったみたいに噴き出した。吐く態勢になっていなかったせいか、吐瀉物は鼻に侵入し、不快な臭いが鼻の奥に充満した。その臭いでさらに吐いた。彼女は私に駆け寄ると労わるように背中をさすってくれた。手には水筒と胃腸薬を持っていた。なんて優しい彼女だろう。そう思うと自分の情けなさと吐く苦しさで涙がでてきた。そしてまた吐く。背中をさすりつづける彼女。そして吐く。何度かこれを繰り返すと、ようやく喋れるくらいには気持ち悪さも治まってきた。

「あびばどう」

鼻がつまったまま私は感謝を述べて、彼女の持ってきてくれた水筒の水で口をすすいだあと、胃腸薬を飲み、気遣ってくれる彼女をまた家まで送ったあと、帰路についた。ベッドに倒れ込むと、また気持ち悪くなり、吐いた。もう吐くものが胃に残っておらず、苦い胃液だけがでた。ベッドでもがき苦しみながら、最高にロマンチックだったはずの1日が、最後の最後で台無しになったことを悔やみ、そして彼女の聖母のような優しさが身にしみてそして吐いた。

病院に行くと、陥没性胃腸延滞という診断を下された。そこからまたいろいろあって約1ヶ月間まともに食事を取れなくなるのだが、それはまた今度書こうかと思ったり思わなかったり。

 

 

 

 

 

 

望まれる太陽

 

12月。寒い。外にいると手足が岩のように硬まり、全身が震えはじめる。歯がカチカチ鳴り、肩が上下に細かく揺れる。なんでもない日常のなかでも身体は生きるためにささいな活動を行なっている。何十年と繰り返され馴れきったこの行為は、ふだん意識すらしないせいかどこか他人事のように思える。私は私の身体を制御しているつもりでも、身体は私の知らないところでひっそりと自律している。

 

 

暗い日々が続いている。精神的にではなく、太陽が顔を出す時間が少ない。朝、目覚めると草花の模様が描かれている黄緑色のカーテンがくすんでいる。外に出ても、太陽は雲に隠れている。会社に着く頃に陽射しが車の窓を照らして、ようやく1日がはじまったような気がする。社内では陽に当たる機会はほとんどない。現場の窓から斜めに差しこむ薄く濁った光の空間を、無数の埃がプランクトンのようにふわふわ漂っている。休憩では陽を浴びてまどろむ時間はなく、中途半端に暖まった身体は現場に降りれば急速に冷えていく。

太陽が顔をださない日もある。どんより曇った空の下、車を走らせ、駐車場から工場へと肌を刺す凍えた空気のなかを歩く。休憩室の窓からは、高架線や遠くに見えるビルの上まで一面雲に覆われた景色ばかり。仕事が終わり外に出ると、辺りはもう夜になっている。

そんな日々のなかで、少しだけ陽の光を拝めるときがたまにある。出勤するため外に出ると厚い雲の隙間から淡い光がこぼれ、朝の空気がやわらかく感じる。お昼になると雲はなくなり、窓からの景色は光で満たされる。冬特有の白く透き通った青空がまぶしい。私はいつか見た軒先で日向ぼっこをしていた猫のことを思う。仕事が終わればやはり辺りは夜になっているけれど、それをすんなりと受け入れることができた。

 

 

 

 

 

道化の素顔

 

 

11月。外でじっとしていると、冷たい空気が手足を通ってじわじわと体の奥へ浸透していく感じがする。まだ一瞬で体温を奪われる寒さにはほど遠いけど、それでもやっぱり寒いと感じる時間が長くなった。

家の小さな庭に生える雑草の伸びが遅くなり、金木犀の香りは数日しかもたなかった。金木犀の香りにはいろんな記憶が詰まっている。良い悪いでは区別できない、混沌とした感情を呼び覚まして、現実とはかけ離れた遠い地平線へ連れ去られる。一瞬の幻、けれどそれはたしかに現実だった。いつかの私が過ごした時間、誰かと交わした約束、退屈、木漏れ陽、なんとなく歩いた道、夜の街、港のさざ波、繋いだ手、川のせせらぎ、冷たい唇、たしかにそこにあった、すでになくなったものたち。通り過ぎたはずの景色と出会う一瞬の邂逅を金木犀の香りはもたらしてくれる。そして終わりには体の奥にずしんと重たいなにかを静かに残していく。そのなにかは年をかさねるごとに重たくなっている気がした。

 

 

 

「ジョーカー」を観てきた。嫁と、嫁の弟と妹の4人で。嫁の弟はこれが2回目で、また観たいからとついてきた。上映までまだじかんがあったので夜の街を歩いた。なにも食べてない嫁の弟と妹はマックで食事をした。ついでに私の分も注文した。ハンバーガーは遅い時間であればあるほどうまく感じる。

 

ホアキン・フェニックスの演技が素晴らしい。特に喫煙シーン。現代の風潮のせいなのか、タバコをかっこよく吸うシーンを最近の映画では見かけない。別にタバコをカッコよく吸わなきゃいけないわけじゃないけど、古典的なモチーフが時間を跳躍して現代に蘇ったような気がして興奮した。あと階段を踊りながら降りるシーン。あまりにも美しくて鳥肌がたった。

映画全体としてみると、個人的にはやはり「ダークナイト」のジョーカーを上回ることはなかった。というか、ダークナイトのジョーカーがすごすぎる。顔の傷のエピソードがコロコロ変わるところとか、入院しているハービー・デントとの会話とか。ダークナイトのジョーカーには、背景がない。社会的にどんな人間だったかもわからないし、悪事を働く動機もわからない。映画が進むごとに、わからないことが解消されるどころかどんどん肥大していく。しかも彼の語る言葉はどれも口からでまかせだ。ハービー・デントを悪の道へ走らせる説得もどこか相手に合わせた言葉を選び、本心は語っていない。実際、「俺が指示したわけじゃない」と嘘をついて相手を諭している。彼のする行動には真実がない。中身はからっぽだからこそ、なにものにも縛られず、社会的な悪を越えた邪悪さを彼は体現している。悪魔がいるとしたら、きっと彼のような存在なのだろう。

 

今回の「ジョーカー」は、ジョーカーがジョーカーになる誕生譚を描いている。映画のあらすじを書くのはめんどくさいので、ここでは省く。ひっかかったのは、バットマンの父親が主人公を殴ったシーン。やりすぎじゃないか?と違和感を覚えた。主人公の視点で物語が進んでいるのだから、理由はどうあれ観客には父親が悪く映ってしまう。これでは主人公側の社会=富裕層=悪という構図がますます強化され、主人公側に正義があるように見えてしまう。ダメだろ。ジョーカーに正義があるように映っちゃダメだろ。これでは単純な勧善懲悪となんら変わりがない。あのシーンは父親がただ去っていくとか、肩か背中をぽんと叩いて去っていくとかで良かったはずだ。殴るって。暴力って。そんな血の気の多いヤツだったら家族守るために拳銃持ってる奴にも殴りかかるだろ。と私は観ながらそう思った。過去作のパラレルな世界とすれば理由はつくけど、それでもやっぱり、単体の映画として観てもどうにも腑に落ちない。主人公は「僕の行動にはイデオロギーはない」と何度も言う。けれど、映画にはイデオロギーが蔓延しているようにみえる。ジョーカーを素材としてだけ扱い、現状の社会に対する不満や憤りだけが、画面に映し出されているようにみえてしまう。

 

 

 

帰りの車中、嫁が「おもしろかったね」と言っていたので、それならそれでいいかとも思った。