ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

水曜どうでしょうに関する新たな?仮説 後編


第3夜、大泉さんがお決まりの台詞「ダメ人間!」でミスターを罵倒してから、豊頃町へと出発する。
次のカットで、運転は大泉さんからミスターにかわった。
車に乗り込んで出発するまでのこの間、4人にどんな話し合いがあったのか、もちろん僕にはわからない。だからこれもやはり憶測になるが、藤やんとミスターのあいだでこの企画に対する意向に齟齬が生じたのではないだろうか。


ここで一度、カントリーサインの旅の「企画の目的」の在り方について整理しよう。


「企画の目的」というのは、サイコロの旅でいえば「北海道の目をだす」ことで、つまり四人が向かわなければいけない、やり遂げなければいけないものを指す。
水曜どうでしょう全体で考えると、「企画の目的」は大体ふたつの種類に分けられる。

ひとつは「運」もの。四人の意志に関係なく、ただ運命だけに左右される企画。(サイコロの旅、韓国食い道楽の旅、オーロラの旅、釣りバカなど)

もうひとつは「努力」もの。四人の頑張りが目的達成に大きく関わる企画。(オーストラリア縦断の旅、ヨーロッパ21ヶ国制覇の旅、アメリカ横断、ベトナム縦断など)

つまり企画のタイプは、目的を達成するために必要な最大の要因、「運」と「努力」で分けることができる。
サイコロの旅で四人は度重なる移動の苦しさに耐え忍ぶけれど、その努力は北海道の目をだすこととは無関係だ。ベトナム縦断では数々の災難に見舞われてどうでしょう班の運のなさを見せつけれてくれるが、最終的には四人の(この場合はミスターと大泉さんだが)ゴールへ向かおうとする努力が企画の目的達成を導いている。

では、カントリーサインの旅はどちらに分けられるのか。

まず、企画の目的としては、「北海道内のカントリーサインをすべて見てまわる」という主旨からしても、「努力」ものに入るだろう。「ヨーロッパの国をすべてまわる」というヨーロッパ21ヶ国制覇の旅とほぼ同じ目的を持っている。ひとつの場所を目指すのではなく、道内をすべて回るというからには、彼らの努力なしには目的達成は考えられない。

だが、ここでルールをあらためて確認してみよう。「カントリーサインが印刷されたカードをランダムに引いて、その引いたカントリーサインを見に行く」。このルールはサイコロの旅のルールとほぼ同じだ。つまり「運」を必要とする企画とルールが同じなのだ。道内をすべてまわらなければいけないのに、行き先は運が決める。これがなにを意味するのか。
それはカントリーサインの旅が、目的を達成するためには「運」と「努力」が両方なければいけない、世にも恐ろしい複合型の企画なのだということだ(!!)
ヨーロッパの旅のように虱潰しにまわることができず、気まぐれで残酷な「運」が行き先を左右するなかで、道内をすべてまわる「努力」をしなければならない。
しかも移動はレンタカー。運転しないですむ深夜バスのほうがまだいくらかマシだろう。しかもヨーロッパやオーストラリアとは違い、窓から見える景色は道民には見なれた地味な画ばかり。どの企画よりも辛いにも関わらず、番組として大した盛りあがりがない。ハイリスクローリターン。地獄だ。思ってたよりも地獄だ。四人の誰もがそう思っただろう。


そこで、藤やんとしてはこの企画、北海道の212市町村をすべてまわるという当初の目的にある程度の見切りをつけて、(というかもともとそのつもりだったのだろうが)豊頃町へ向かう途中にある先々で有名なものなり場所なりをふたりに紹介させて回る方向にシフトしようとしていた。
全シリーズを通じて、藤やんは目的達成が困難だと分かると、こういう手段をとる傾向にある。
それはつまり、企画の目的はあくまでも番組の軸がブレないためのひとつの指標にすぎず、絶対に達成しなければいけないものではなく、むしろその過程(道中)で起きる面白い出来事なりハプニングなりを起こせればそれでいいという考えが底にあるからだ。
あと、単純に休みたいというのもあるだろう。まだ2日目とはいえ、不眠不休で道内の移動を繰り返し、体力も限界にきていた。ここでひとつ休憩をはさんで、そのあとはなるべく無理のない移動をすればいい。大泉さんも車に乗り込む前にそう言っている。


しかし、ミスターはそれに反対する。


企画者であるミスターは、藤やん同様、北海道212市町村すべてをまわることが不可能だということは分かっていた(と思う)。しかしミスターは企画の目的が「努力」ものである場合、たとえ不可能であろうが、なにがなんでも目的達成をしようとする誠実な姿勢を視聴者に見せることを重視する(ヨーロッパ21ヶ国制覇の旅でもそうだった)つまりこのまま休憩はせずに移動を続ける意志を示した。
今でこそアフリカの旅ではカメレオンを愛でるだけのご隠居になってしまったミスターだが、この頃のミスターはやる気に満ち溢れていた。自分がこの番組を引っ張っていくという気概に溢れていたのだ。212すべてまわると言っておいて、4つか5つで終わっては格好がつかない。なら限界まで頑張ろうじゃないか。これがミスターの考え方だったのではないだろうか。



藤やんとミスターの力関係はよくわからないが、このとき、ミスターの意向が採用されたのだろう。
こうしてミスターの過酷な合宿計画がはじまる。


運転は大泉さんからミスターにかわり、四人は豊頃町を目指す。休憩すると言っていたのに、大泉さんと藤やんは寝ずにカメラを回している。ミスターが回そうと言ったのか、四人が起きていなければいけない状況だから回しているのかはわからない。
車中では大泉さんがこんな無茶な企画を考えたのと休ませてくれないミスターに対する不満をそれとなくほのめかすトークで笑いを誘う。それに藤やんも同調する。ミスターは彼らの態度にすこし不機嫌になり、察したふたりは場を和ませようとなんとか苦心する。
午前9時、美瑛で朝食。広大な畑のそばでコンビニのカレーを食べながらした大泉さんのモノマネも空回り。もうみんな限界なのだ。
四人は移動をつづけ、新得町新得そばを食べるが、そこにミスターの姿はない。ミスターは疲れて寝ているというシーンが挟まる。

そして問題のシーン、ミスターが「おはようございます」と挨拶してからしゃべりだし、「それでは、おやすみなさい!」と言うところまで、このときの大泉さんの表情に注目してほしい。
このときの大泉さんの顔は、怒っているのを我慢している人がする表情なのだ。怒っているのを隠すために無理に明るく振る舞おうとしている表情、そうは見えないだろうか?

では大泉さんは何に怒っているのか?

それはもちろん、このまま移動をつづけると主張したミスター本人がひとりだけ寝ていることに対してだろう。ミスターの「おはようございます」に藤やんは「みんな起きてるよ」と愚痴っぽくこぼしたとおり、大泉さんはひとりだけ寝ているミスターにかすかな憤りを感じていたのではないだろうか。

そのあともミスターは眠り、ふたりから「いちばんやられてるじゃん」と責められてすこし弱気になったところで、豊頃町にようやく到着する。ここで第3夜が終わる。


第4夜、午後1時15分、豊頃町に到着したどうでしょう班は、ほとんどヤケクソと言ってもいいテンションでカントリーサインを引く。
次に引いたのは鹿部町。今度は豊頃町に向かったときよりもさらに長い道のりになる。だれもが言葉を失うなか、ミスターは言う。

「よし!行こう!」

次のシーンは鹿部町へどう向かうかの算段をしているところからはじまる。
つまりまだミスターは諦めていないのだ。このまま移動をつづけるとすれば、距離からして徹夜は免れないだろう。車中泊だとしても、体験したことがあるひとなら分かるだろうが、車中泊はほとんど寝た感じがせず、むしろ疲労感が増してものすごく辛いのだ。2日連続でほとんど満足に眠れない地獄が待っているというのに、ミスターはなおも移動をつづけようとする。

そして、あの有名なシーンに突入する。

四人は高速で白老を抜けて登別にさしかかったところでカメラを回す。
ミスターはたぶんまた寝ていたのだろう、かすかに鼻声で、発言も弱気だ。しかし、まだ続行する意志を見せる。

そんなミスターに、大泉さんは不満を爆発させる。212ぜんぶまわるなんて無理なんだからやめましょうよということをそれとなく匂わせる発言をおもしろおかしくまくしたてる。それでもミスターは食い下がろうとするけれど、大泉さんの勢いに呑まれてしまう。
このときの車内の空気はかなり険悪だったのではないだろうか。「ギリギリですよ?」と言う大泉さんの表情が本気なのだ。本気で苛ついている表情なのだ。ミスターの顔も強張っている。

そして、トンネルに入ると、大泉さんと藤やんのふたりは笑い出す。しきりに「行くんだよね?ね?」と藤やんに確認する大泉さん。「行くんだから、行くんだから」と言いながら笑うふたり。
「行こう、行こう、行きましょう!行きましょう!ささあ、行きましょう行きましょう!」
そう言いながら大泉さんは、登別インターチェンジへとハンドルを切る。本来ならばそのまま高速にのっていなければいけないのに。
鹿部はこっちだ!鹿部へ行くよ!待っててくださーい!鹿部町のみなさーん!」と大きな声をあげながら向かったのは、登別温泉。見方によってはかなり緊張感のあるシーンだ。
次にどうでしょう班が温泉に浸かる場面が流れ、そしてそのままホテルに一泊。
翌朝、「ホテルに行こうって言ったのはミスターだからね」という補足がはいり、あらためて旅がはじまるわけだが、あのときの空気感からして、ミスターはそんなことは言ってないだろう。ふたりがミスターには黙って登別に行くことを決めたのは明らかだ。厳密には藤やんが決めたのだろう。ミスターが寝ている隙に大泉さんにトルネルを抜けると登別インターチェンジがあるからそこを降りて登別温泉に行こうと指示したはずだ。

この、ミスターが寝ている隙に行き先を変更するやり方は今後のシリーズを通して何度か実行されている。
ヨーロッパの旅でもそうだし、アメリカ横断でもある。しかしそれらとこのカントリーサインの旅の違いは、前者はふたりの交わす密談を視聴者に示し、あとになってミスターに怒られるという一連の流れが確立されているのに対して、後者は密談が省かれてさも四人ともが登別温泉に行くことを知っているかのように編集されている。


ここまで書いて、最初に僕が提起した「本当に「やらせ」はなかったのか」という問いに立ち戻ってみると、これはやらせと呼ぶにはちょっと違和感がある。やらせというよりは、内輪のいざこざをどうにかして笑いに変えた結果であって、やはりこれはやらせではないし、もしかしたらDVDの副音声でこのことが語られているかもしれないから、新たな仮説ですらないかもしれない。
ただ、どうでしょう班が視聴者にすべてを包み隠さず見せているということに対しては少なからずの異議を唱えられたのではないだろうか。
水曜どうでしょうはテレビ番組という「作品」なのだから、そこにある程度の作為があるのは当たり前なのだ。

それにしても、僕がこうして書いてきたものはあくまでもゴシップ的な文章に過ぎず、自らがあらかじめ想定した結論へ悪い意味でうまく着地できなかったし、なによりもどうでしょうの良さをまったく書けなかったのは、自分の力不足でしかないのですごく悔しい。
次回はもっとちゃんと水曜どうでしょうの良さを伝えられるように頑張ろう。


では、また

物語作家の矜持と覚悟

5月の初々しい暖かさがだんだんと蒸し暑さに変わってきたと思ったら、梅雨になっていた。
毎年、梅雨というわりにはあんまり雨が降らないので拍子抜けする覚えがあるけれど、今年はどうもそうならないような気がする。梅雨入り宣言がされてから、ほとんど毎日のように降っている。朝から夕方ころまでずっと降っている日もあれば、夜から降りだして、朝になると路面が濡れているだけでお昼には雲ひとつない快晴になる日もある。とにかく雨、雨、雨で、外出するときは傘を持っていこうか迷わない日は当分来そうにない。雨が好きな僕としては、べつにそれでいいのだけれど。アパートの近くに植えられている紫陽花は、今年も綺麗な色の花、ではなくてガク?を咲かせてる。
雨の匂いがこもる道をひとりで歩くのは退屈で、できれば気兼ねなく散歩に誘えて、話の合う男友達が近くにほしい。女友達でもいいけれど、歩いているうちにムラムラしてきそうだから、やはり男友達がいい。とりとめもない会話。久しくそんなことをしていない。というか人とろくに会話をしていないので、ちゃんとした言葉を喋れるのだろうか、不安。その前に友達をつくらないとな、とクラス替えをしたばかりの高校生みたいなことを考えたりしている。


久しぶりに「バベットの晩餐会」が観たくなって、観たくて観たくていてもたってもいられなくなり、急いでTSUTAYAに行ったらすでに誰かに借りられていて、諦めきれず普段は遠すぎるからAVを借りるためにしか行かないGEOにも行ったのに、GEOには置いてすらなくて、悶々としながら2、3日を過ごしつつ、そのあいだにもTSUTAYAへ足しげく通いつめるけれど、バベットの晩餐会のケースは空のままで、そして4日目のバイト終わり、ようやくケースに収まれたDVDを見つけたとき、「あぁへぁあ~」と思わず我ながら気持ち悪い安堵のため息がでてきた。
なんでこんな衝動的に観たくなったかといえば、この映画の原作者であるイサク・ディネセンの小説を読んだからだった。


ディネセンの小説は20世紀に書かれたものなのに、19世紀的な小説が多い。時代設定がほとんど19世紀に据えられているというのも理由になるかもしれないけれど、むしろそれは作者が意識的に選んだことなのだと思う。ニーチェが西洋独自の形而上学的思考を根本から否定し、信仰の地盤を揺るがす以前の時代、そして小説というジャンルがまだ未発達であり、だからこそ物語と未分化な状態で、ある種の親和性を保っていた時代をディネセンがあえて選んだのは、彼女が根っからのキリスト教圏らしい物語作家だったから、なのだと思う。彼女の描き出す魅力的で卓越した物語を存分に活かせる場として、19世紀という時代が選ばれたのは、必然だった。舞台が20世紀では、彼女の描く人物たちはあまりにもナイーヴすぎるし、展開もドラマチックに映ってしまう。カフカムージルやジョイスが現れてしまった以後の小説世界では、小説と物語が仲良く手をとりあって進んでいくことを許してはくれない。だからこそ、ディネセンは小説の舞台を19世紀に設定することで、信仰を軸にしたものすごく面白い19世紀的な物語を創りだしていくことができた。

「老男爵の思い出話」という短編がある。題名のとおり、老男爵が若かりしころの思い出を「私」に話して聞かせるという、「千夜一夜物語」を思わせるちょっとした入れ子構造で、小説は進んでいく。

冒頭、男爵はなぜかパリの街角のベンチでうなだれている。理由は、不倫していた伯爵夫人に危うく殺されかけたところだったからだ。彼は彼女のことが大好きだったけれど、彼女にとって男爵は夫の嫉妬心を煽るための道具でしかなく、その日、無理やり押しかけてきた男爵にイラつき、コーヒーに毒を入れて殺そうとした。間一髪のところで男爵はコーヒーに毒が入っていることに気がつき、伯爵夫人宅から逃げ出す。そして、雨がふる夜に、恋人に殺されかけたショックでひとりベンチに腰かけていたというわけ。
そこにひとりの若い娘があわられる。まあ、この時代に若い娘が夜中ひとりで歩いているとなれば、十中八九、娼婦だろう。男爵が笑うと彼女も笑いかけ、男爵が家に帰ろうとたちあがり歩きだすと、娘もそのあとについてくる。
で、ふたりは男爵宅に着き、雨に濡れた服を脱ぐ。男爵は若い娘のたぐいまれな美しさに驚き、興奮する。そして用意されていたディナーを裸のまま食べて、彼女が歌をうたう。その歌声の非凡さに男爵は驚き、興奮する。それからふたりはベッドで抱きあい、そこで彼女が処女であったことを知り、男爵はまた驚き、興奮する。これは神から与えられた贈り物なのだと、夢のような時間を過ごして眠りにつく。1、2時間して起きると、娘は着替えていた。そして、お金を要求する。「マリーがそう申しますの。20フランもらうようにって」と言って。そこでようやく男爵は、彼女を神の贈り物なんかではなく、ひとりの人間として認識する。お金を渡し、彼女は立ち去る。ここで老男爵はじぶんなりに考えた彼女の正体を語りだす。



この娘は誰か係累がいて、それが重石になっているに相違ない。独り身ならこんなことにはならなかっただろう。娘を頼りにしているが助けることはできない誰か。ひどく年取って、没落の衝撃で手も足も出なくなった人か、それとも年端もゆかない弟妹か。(中略)ところが、ナタリー(娘のこと)は持ち前の自信と輝きをつちかわれた美と調和にみちた環境、歌うすべを習い、あれほど明るく笑い、優雅にふるまい、誰からもいとしまれていた環境から、美も品位もなんら意味をもたない別の世界へと、まっさかさまに墜落したのだ。そこで人生の冷厳な実情に直面する。破滅、みじめさ、飢えへと一直線に突き進む。その下降する梯子の最後の足がかりで、どんな人かはわからないがマリーなる知り合いが、持ち合わせのわずかな世間知をしぼってナタリーに助言をした。そしてみすぼらしい服を貸してやり、元気づけになにか強い酒を飲ませたのだ。



このへんを読んでいて、こういう考え方は男特有のものではないかと僕は思った。美しい女が不遇に扱われていると、それは彼女のせいではなく、周囲の環境や人が悪いだけで、彼女自身は清らかでなんの罪もないみたいな、ひどくロマンチックで都合のいい考え方をする傾向にある。ここで大半の男は、俺が守ってあげなくちゃ!と燃え上がるわけだが、んなわけないのにね。
ここで話が終わってしまったらただのラブロマンスで終わってしまうが、そうはならない。
男爵はその日から彼女を探し出そうと街中を探しまわるのだが、結局見つからない。それから15年後、ある画家の邸宅を訪ねたときだった。画室にある頭蓋骨を見て、あのナタリーに似ていると、男爵は突然思い当たる。美しい一夜の恋の物語がグロテスクな様相を帯び、なにか不穏な気配を漂わせたところで、この老男爵の思い出話は終わる。見事としかいいようのない幕引き。
ここに書いたのはかなり大雑把なあらすじだけで、男爵と伯爵夫人と伯爵の複雑な関係性とか、いかにナタリーが美しいかを当時の服の形態についてをまじえながら語る描写も省いたので、この短編の魅力がちゃんと伝わっているか不安だ。でもこうやってあらすじだけを抜き出してみると、僕の説明が下手というのもあるかもしれないが、やはり小説を形づくるのは細部なんだなあと改めて実感した。たとえば、ナタリーが別れ際に男爵にした動作、


紙幣を左手に持ったまま、娘はわしに身を寄せて立った。別れのキスもしなければ、握手をするでもない。ただ、右手の指三本をあごに当ててわしの顔を上向かせ、じっと眼を見つめた。別れるとき姉が弟に与えるような、はげましとなぐさめのこもったまなざしだった。そして立ち去っていった。


なんて素晴らしい場面だろうか。ここを読むと、ぐっと胸を締め付けられる。


映画の「バベットの晩餐会」は、ディネセンの文章と物語の持つ魅力が映像へと完璧に再現されているので、ぜひ観たほうがいい映画のひとつ。堅苦しくないし、観たあと、優しい気持ちになれるよ。


では、また

古くさい詩みたいなもの。


雨が響く軒下で、


虹を待つ少年


雲の切れ間には 天使が住んでるって話。


カエルの大合唱


のかわりに、都会では


遅延のホームで こだまする舌打ち。


ビルの谷間には 黒猫が捨てられてるって噂。


放課後の射撃ごっこ「バン!バン!」


流れ弾が水たまりに、世界が揺らぐ。


雫が垂れる軒下で、


虹を待つ少年


紫陽花の葉陰に カタツムリはいないって事実。

水曜どうでしょうに関する新たな?仮説 前編

みなさんは、水曜どうでしょうを観たことはあるだろうか。
僕は大好きで、誇張ではなくれっきとした事実として毎日観ている。晩ごはんを食べるときは決まって水曜どうでしょうを流している。食物を咀嚼しながら同時に水曜どうでしょうも視覚を介して体内へ取り込んでいるわけだ。外食などをしたときには、夜、寝る前に子守唄かわりに流している。お金がないのでDVDは滅多に買えず、テレビでやったのを録画してそれをその日の気分によってどのシリーズを観るかを選択している。なので初めて観るシリーズなどとっくになくなっていて、同じものを何度も何度も繰り返し観ている。
そんな同じものを何度も観ていて飽きないのかと聞かれれば、正直、多少のまんねり感はあるものの、やはり1日1回は観ないと落ち着かない。
僕にとって水曜どうでしょうを観ることは単なる娯楽ではなくて、老人が健康のために朝する乾布摩擦のような日課でもあり、丸の内のOLが美容を保つために飲むビタミン剤のような補助栄養食品でもあり、つまりは他人からみればいくらでも代替可能でそんなことはしてもしなくてもどっちでもいいものかもしれなくても、じぶんには欠かすことのできない唯一無二の大切な存在なのだ。そういうものは誰にだってあるはずだ。たぶん。
それに、何十回も観ていくうちに、2、3回観ただけでは気がつかない新たな違う側面も見えてくる。
今回は、そんなふうにして気がついた、というか、もしかしたらそうなのかもしれないという仮説を書いていきたいと思う。


そもそも水曜どうでしょうとは一体なんなのか?


簡単に説明すると、1996年10月9日に放送を開始した北海道発のローカルテレビ番組である。
出演者は大泉洋(大泉さん)、鈴井貴之(ミスター)のふたりで、ディレクターの藤村忠寿(藤やん)が声だけで番組の進行役をつとめ、同じくディレクターの嬉野雅道(うれしー)がカメラを回している。
水曜どうでしょうはほぼこの4人で制作されている。
一応、形式上は旅番組扱いになっているけれど、一般的な旅番組のように赴いた先々の土地の景色や観光地や名物が紹介されるのは稀で、内容は移動中に交わされる4人の会話がほとんどを占めている。どちらかといえばある目的に向かって頑張るがためにハプニングを引き起こしたり災難に遭ったりして参っている4人の姿がこの番組のウリであり、ほとんどの視聴者が求めているものもそこにある。
なによりも有名なのが「サイコロの旅」シリーズだろう。
サイコロを振り、出た目によって行く目的地が決まるという、水曜どうでしょうが最も誇る名物企画だ。
1~6までの数字に藤やんがそれぞれ、物理的にも資金的にも移動可能な範囲の地名を割り当て、大泉さんかミスターのどちらかがサイコロを振り、その出た数字に割り当てられた場所に向かう。目的地に着いたら、すぐにまた藤やんがそれぞれの数字に移動可能な地名を割り当て、また大泉さんかミスターのどちらかがサイコロを振り、その出た目に割り当てられた場所に向かうという、いたってシンプルなルールのもとで番組は進行していく。
ゴールは北海道なのだが、これがなかなかたどり着けない。数字の半分が北海道の目であっても、運の悪いふたりは正反対の九州へいく目をだしてしまったりする。特にミスターは「ダメ人間」と称されるほど悪い目をだす。大泉さんが北海道へ近づく目を地道にだしても、ミスターはその努力を1発で帳消しにする九州へ向かう目をだす。藤やんが冗談半分で割り当てた、最悪の目を出してしまうのだ。そして4人は苦しみながら、あるいはぼやきながら、あるいはうなされながら移動する。そこが面白い。
彼らはどんな苦難も笑いに変えるために奮闘する。どんなに苦しくても、どんなに頑張っていようとも、こういう企画ものにありがちな、やすっぽいドラマチックな感動へは傾かない。視聴者を安易に泣かせようなんてこれっぽちも考えない。歯をくいしばってすべてを笑いに変える。自分たちをあえてカッコ悪く撮る。それが水曜どうでしょうの特徴であり美点でもある。これがエンターテイメントだ!と言われている気がするのは僕だけだろうか。しかしこんな芸当ができるのは、あの4人それぞれの面白さがあってこそ、初めて成り立つ奇跡のようなものだとも思うのだけれど。




あと、水曜どうでしょうのもうひとつの特徴として知られているのは、「やらせ」がないことだろう。
「サイコロの旅」にしても、サイコロを振って出た目の目的地には、番組の流れ関係なしにかならず向かう。振り直しなどありえない。その目的地がどんなに地味な土地だろうが、あまり盛り上がらなそうな移動方法であろうが、たとえタイムアップまでにゴールできない目がでようが、サイコロを振り出た以上は必ず向かう。中途半端に番組が終わろうが、お構いなしなのだ。それはどのシリーズにも通じる理念でもある。まさにガチンコだ。ガチンコファイトクラブよりもガチンコなのだ。
たとえ「やらせ」に近い行為をしたとしても、それは視聴者に分かるように示される。わたしたちはいま「やらせ」をしています、といった具合に。それはもうすでに「やらせ」ではなくて、彼らのダメっぷりをわざと暴露しているに過ぎない。それが面白くて、そこに視聴者はある種の安心感を得る。この4人は自分たちの醜態を包み隠さず晒してくれていると。他のテレビ番組とは違い、作られた笑いではなく、正真正銘、台本なしの笑いを提供してくれているのだと。


いや、果たしてそれは本当だろうか?
本当に彼らは、僕ら視聴者になにも包み隠さず、すべてをさらけだしてくれているのだろうか?
彼らのもたらす笑いが作られたものではないという意見には、僕もほぼ賛成だが、彼らが包み隠さず、彼らのすべてをさらけ出しているという点、ここに僕は異を唱えたいと思う。
今までのシリーズで、本当に「やらせ」はなかったのだろうか?




「北海道212市町村 カントリーサインの旅」を観たことはあるだろうか。
これは、「北海道の番組なのに、北海道での企画がなさすぎる」という名目で行われた、水曜どうでしょうの歴史のなかでも、比較的古い年代にはいるシリーズのひとつだ。
企画のルールは「サイコロの旅」とほとんど変わらない。
ただ行き先を決めるのはサイコロではなく、カントリーサインで決める。
カントリーサインとは、各市町村がそれぞれの特色を絵で表したものだ。たとえば、札幌市ならこんな感じ。


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こういうものが北海道212市町村すべての境に看板として道のそばに設置されている。
これを印刷してつくったカードをランダムに引き、引いたカードに描かれたカントリーサインを実際に行ってぜんぶ見てくるという、サイコロの旅同様、いたってシンプルなルールだった。


しかしこれ、冷静に考えてみると、とんでもないルールなのだ。



*ここからはネタバレになるのでご了承ください。(YouTubeに番組があがっていたのでリンクを貼ろうと思ったけれど、なんか危ない気がしたのでやめました)



第1夜、4人は札幌市からレンタカーに乗って出発する。
引いたカードは夕張市カントリーサイン
夕張に向かう車中、4人のトークは番組が始まったばかりとあって意気揚々と弾んでいた。
運転手である大泉さんもこの日に合わせて体調を整えているとあり、この企画に対してぼやきながらもなんだかんだ元気だった。夕張には1時間ほどで到着した。道の脇にカントリーサインを発見。時刻は夜中の0時40分。着いて早速カードを引くと、次は幌加内町。夕張からは2時間ほどで到着する町だった。

第2夜、幌加内町には3時半ころに到着した。このときすでに4人は若干眠たげだった。しかしここは数々の苦難を乗り越えてきたどうでしょう班、そんな素振りはおくびにもださず(いやちょっとでてるかも)、まだ元気にトークをしていた。
次に引いたのは雨竜町幌加内町とはかなり近いところにあり、喜ぶどうでしょう班。トークは徹夜したときになるあの変なテンションで交わされていた。
このとき、雨竜町に向かう車中で、藤やんはある提案をした。


「次、鈴井さんにカードを引いてもらうってのはどうでしょう?」


ここで注意してほしいのは、藤やんはこの水曜どうでしょうのディレクターということだ。ただ馬鹿みたいに大声で笑っているだけではなく、常に番組の流れを考えている人間だということ。
これはあくまで僕の憶測だが、藤やんはこのままだと番組的に盛り上がらないと判断したのだと思う。国道275号線を行ったり来たりしているだけで、どうでしょうの持ち味である「無茶ぶり」、サイコロの旅でいう「九州の目」がまだでていないのだ。しかも今のところほとんど、というかぜんぶが車中でのトーク。これでは番組の流れがだらっとしてしまう。いくら大泉さんのトークが面白いとはいえ、限界がある。
そこで、今まで大泉さんが引いていたカントリーサインを、「ダメ人間」であるミスターに引かせて、遠ければやっぱりミスターだな!となり、近ければミスターなのにすごいじゃん!となることで、どっちに転んでも多少の盛り上がりは見込めるし、カードを引くときの緊張感も生まれる。そう考えたのだと思う。
そして、雨竜町でミスターが引いたカードは、名寄市幌加内町の隣にあり、これまた微妙な距離に位置するところだった。約2時間半で着いてしまうし、近い距離といえるほどでもない。藤やんの目論みは不発に終わった。
幌加内町をもういちど通り、名寄市に着いたのが朝の6時10分。カントリーサイン前で、大泉さんの目はほとんど開いておらず、呂律もまわっていない。藤やんの声もどこかおかしい。ミスターの機嫌もすこし悪い。
カントリーサインを引くのは今回もミスターが務めた。引いたのは、緑の大きな木が描かれたカントリーサイン豊頃町
4人は地図上で豊頃町を探すけれど、なかなか見つからない。そして、発見したと同時に、「あぁっ!!」と、4人から驚きの悲鳴があがる。
この町は名寄市から直線距離にしても、400㌔以上も離れたところに位置していた。
ここで、第2夜が終わる。


第1夜、2夜と、ここまではいたって普通の水曜どうでしょうだ。ここで覚えていてほしいのは、4人はほとんど寝ていないということだ。番組が始まってまだ一夜しか明けていないが、眠らずにいるというのは一夜だけでもキツイ。その証拠に、名寄市に着いた4人の雰囲気から伝わってくるのは「寝たい」という3文字のみ。まあ、これもこれでいつもの水曜どうでしょうだ。
しかし、第3夜に入ってすこしすると、4人のあいだに不穏な空気が漂いはじめる。



(後編へつづく)

I want to 初夏!


今日は最高にいい天気だった。空には雲ひとつなく、涼しげに流れる清らかな小川のように澄んだ青色が広がっていた。中天にさしかかった太陽の光を遮るものはなにもなく、どこに目を向けても眩しかった。澄んだ青空を背景に建ち並ぶビルも、車も歩行者もまばらなアスファルトも、陸橋のフェンスも、すごいスピードで通過していく快速の電車も、少年の被る赤い帽子も、新緑に萌える木々も、花壇に咲く花も、少女の着ている白のワンピースも、電信柱も、看板も、信号機も、なにもかもが眩しい陽の光に包まれて鮮明な色と輪郭で縁どられていた。風が強かったけれど、歩くとすこし汗ばんでくる今日の気温にはむしろ心地よかった。生ぬるいけれど、爽やかな風だった。
絶好のお出かけ日和だ。
駅前はGWだからか、閑散としていて静かだった。それが僕の心を妙にウキウキさせた。このままバイトへは行かずに、電車に乗ってどこか大きな公園にでも行ってしまおうかという誘惑がすこし向こうのほうから手招きしていた。けれどすんでのところで踏みとどまってしまった。つい先日、風邪をひいてバイトを休んでいなければ、きっと迷わずにそうしていたのに。理性のバカ。こういうときに休めないで、いったいなんのためのフリーターなのだろうか。
それにしても、最高にいい天気だった。絶好のお出かけ日和でもあり、死ぬには最高の日だとも思った。生命が躍動しはじめる季節に、人知れずただ穏やかに死ねたらどんなに気持ちがいいだろう。どうせ死ぬなら初夏がいい。季節に不似合いな死。でもやっぱり冬に死ぬよりは断然いいだろう。殺伐とした空気のなかで震えて死ぬ季節より、春ののんびりした雰囲気をひきづったまま、生命が一番やかましく躍り狂う夏の兆しをぼんやりと感じられる初夏という季節に死ねたら。でもそれは、僕の生まれた日がこの季節と重なっているからなのだろうか。
人知れずに死ぬことができたら。きっとそれは死んだことにならない。僕の死を知らないみんなのなかで僕はまだこの世のどこかで生きているということになり、ふとした瞬間に思い出すかもしれない僕のことも、それは死者に対して抱く変に整理された記憶とは違い、僕が生きている前提で思い出される生々しい記憶なのだと思う。それはもう、僕にとっては死んでいながらも生きているってこととほぼ同じだ。そんなロマンチックでリアリティのある現象って、ほかにあるだろうか?
けっこうあったりするんだなこれが。
べつに僕は死にたいわけではない。むしろ人一倍死ぬのが怖い。夜眠れなくなるほど怖いときもある。でも死ぬ。ひとはいつか必ず死ぬんだ。そんな当たり前のことを当たり前に思えない人がこの世には信じられないほど多すぎる。だから、僕は死にたいわけではない。どうせ死ぬなら、死ななければいけないなら初夏がいい。今日みたいな最高にいい天気な日を命日にしたいだけ。



生まれたばかりでつるりと艶のある先までピンと張った葉の葉脈を透かしながらこぼれ落ちてくる木漏れ日を浴びながら、ゆっくりとだらだら散歩をしたい。子供たちの戯れる声を聞きながら、恋人たちの秘密のささやき声に耳をそばたてながら、ベンチに座り、湖面をキラキラと踊る光の粒を眺めて、よく冷えたオレンジジュースを飲んでいたい。過去にあったさまざまな記憶を掘り返して、笑ったり泣いたりしたことを思い起こしながら、漠然とした未来にも目を向けつつ、ずっと考えていること、死ぬこととか、生きることとか、愛とか、信仰とか、悪とか、正義とか、欲望とか、友情とか、世界のこととかを考えながら、なにかおいしいものを食べて、お腹を満足するまで満たしたい。
もっと生きていたい。もっと生きて、まだまだこの世界の美しさを噛みしめていたい。

風邪ひいた。

とにかくなにか書きたいので書く。書きたい。なんでもいいから内容を気にせずに文章を構成していきたい。ここに書く文章のほとんどは推敲したことないけど、今回はそんななけなしの推敲も一切しない。衝動、なんて格好いいものではなく、行き当たりばったりでただ自分の欲求をひたすら満たしていこう。



近況報告。風邪をひいた。そしてこじらせた。喉が痛い。高熱もでた。しかもなぜか歯茎の奥のほうが腫れて、ものが噛めない状態なので、まともな食事ができず、体力がどんどん削られていく。バイトを二日休んだ。なのに治る気配がまったくない。後天的に白血球が少ない体質なので、常人より治癒が遅いのは分かっているけれど、自分の体の弱さにはイライラする。あまりにも治りが遅くてイライラしてものに八つ当たりしたら、鏡が割れた。さらにイライラした。泣きたくなった。情けなくなった。はやく健康になりたい。




喉が痛い。他のことについて書こうとしたら喉が痛くてつい喉が痛いと書いてしまった。でも本当に痛い。惨めだ。これでまた痩せるんだろう。骨と皮だけになってしまうんだ。この風邪が治ったら、体力をつけるためにすこしでもいいから走ろう。筋トレもしよう。鶏のささみを食べよう。プロテインを飲もう。一生健康でいよう。もう病気になんてなりたくない。なんだよこの苦しみ。風邪ごときでなんでこんな苦しまなきゃいけないんだ。お腹すいてるのになんでなにも食べられないんだ。ステーキ食べたい。トンカツ食べたい。唐揚げ食べたい。肉、肉肉、肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉!!!肉食べたい!!!もうウィダインゼリーは飽きた!!ていうかなんだよ歯茎の奥のほうが腫れるって。おかしいでしょ。これたぶん風邪と関係なさそうなのが不快なんだ。きっと高熱がでて一番苦しいときに食べたソイジョイが原因だ。チョコアーモンド味を食べたら、アーモンドが思いの外尖っていて、一口かじっては咀嚼するたびに奥のほうの歯茎になんども突き刺さった。で、次の日起きたら腫れていた。不運。なんて不運だ。なんで僕はチョコアーモンド味なんてものを選んでしまったんだろうか。悔やんでも悔やみきれない。あー唾を飲み込むたびに喉が痛い。でも喉が痛いって書くのにもいい加減飽きてきた。ウィダインゼリーと同じくらい飽きてきた。からやめる。




かといって他のことを書こうと思っても、やはりこんなふうに杜撰な書き方はしたくないものばかりだ。ちゃんと構成を考えてじっくりと書きたい。練習も兼ねて。だからもう今回は風邪のことだけでいいし、それ以外のことはこのクソ忌々しい風邪が治ってから書くことにしよう。そうしよう。このまま死ななければ。大袈裟だと思うだろうが、本当に辛いのだ。愚痴らなければやっていけないのだ。


もう疲れたので、終わる。

料理バカと呼ばないで

先日、バイト中に店長と雑談をしていたところ、会話の流れで僕が昨日晩ごはんにパスタをつくったという話題になった。
料理をまったくせず、三食すべてをカップ麺か外食で済ます関西人の店長は、
「パスタなんて作るのか。すごいな~」
と妙に感心しているのがおかしくて、僕はパスタという食べ物がどれだけ簡単に作れるかを説明しようとした。
「あんなのマジで簡単ですよ。麺を茹でてるあいだにソースを作っとけばいいんですから。一番簡単なのはまずにんにくを…」
意気揚々とペペロンチーノの料理手順を喋りだそうとしたとき、不審そうな顔をした店長が遮った。
「ソース…?お前、ソースを一から作るんか?」
「え?あ、はい、まあ…そうですね」
「ソースなんて、わざわざ作らんでもスーパーで売ってるやん。」
「そうですけど、オイルベースのだったら作るの簡単だし、レトルトよりも安上がりですよ」
すると、店長はにやりと笑って
「お前は料理バカやな」
と言った。
……料理バカ?
予想だにしていなかった言葉に、僕は一瞬固まった。
店長はたぶん、半分皮肉でそう言ったのだろう。スーパーでレトルトのソースを買えば楽なのに、それをわざわざ作るなんて物好きなヤツだなという意味をこめて、料理バカと僕にそう言ったのだと思う。しかし、軽い冗談で言われたにしろ、僕にはやはり、料理バカという響きが自分の境遇にとって一番おこがましい、むしろ畏れ多い言葉に聞こえた。



僕は2年間ほど、ホテルで調理師として働いていた経歴がある。
そのホテルには和食、イタリアン、中華と3つの食事処があった。僕の働いていたイタリアンは、宿泊施設からすこし離れた場所にあったので、席数もそれほど多くなく、形態としてはレストランに近かった。シーフードイタリアンを謳っていただけに、客席からはすぐそばにあるヨットの停泊した船着き場が見渡せ、遠くには海と空の境界が曖昧にまじる水平線が広がっていた。
僕は前菜場と盛りつけを任されていた。
朝、8時か9時に出勤し(もうどっちか忘れてしまった)、仕込みをはじめる。11時くらいに一旦中断し、まかないのパスタを食べて、すこし休憩したあと、また各々の作業場に戻るころ、ランチがはじまる。
お客さんが来ると、僕はすぐさま前菜の盛りつけをする。ランチもディナーもコースだったので、前菜がでなければ次の料理も出せないし、前菜のでる時間が遅れれば遅れるほど、その分ほかの料理のだすタイミングも滞ってしまう。前菜を出し終わってしばらくすると、今度はパスタ場から渡されたパスタの盛りつけをする。2、3人前ならともかく、それ以上になるとフライパンの重量も加わりけっこう重たい。それぞれのお皿に均等に分けていくのにもコツがいる。単に分けるだけでなく、当然見た目もきちんと綺麗に盛り付けなければいけなかった。コースによってはセコンド(肉料理、魚料理など)があり、その盛り付けも担当した。盛りつけが終わると、使い終わったフライパンや加熱用の皿などを洗い、乾いたら元のところへ戻しにいく。これらの作業をこなしつつ、ディナーの仕込みも同時平行でしなければいけなかった。暇な日ならともかく、忙しいと仕込みまで手が回らず、ランチが終わりみんながディナーまでの時間を休憩に使うなか、ひとりキッチンに居残ってせっせっと仕込みをすることも少なくなかった。
ディナーでは仕込みをしないかわりに、盛り付けの作業がランチとは比較にならないほど複雑になり、客数も段違いに増えるので、気を緩めるヒマなどなかった。ディナーが終わるとゴミを焼却炉へ持っていき、キッチンの床やコンロなどを清掃して、それからみんなで軽トラに乗り込んで寮に帰っていくのだが、ぺーぺーである僕はこれで終わらない。どう考えても明日できそうもない仕込みをするために、またキッチンへと舞い戻っていく。作業が終わりホッと一息ついて時計を見ると、いつも0時をまわっていた。外へ出ると、あたりは静かで、さざ波が規則正しくヨットをちゃぷちゃぷと揺らす音しかしない。おだやかな海が月に照らされ、水面にまっすぐな光の道をつくっていた。そんな夜の海を横一直線に貫くようにして、高台にある小さな灯台からは、緑と赤のランプが交互に水平線の向こうへと光の指針を投げかけている。
いつもの帰り道に見るこの光景を、僕は眠い目をこすりながら慰められるような気持ちで眺めていた。



なによりも僕を憂鬱にさせたのは、ディナーの前に食べるまかないを担当することだった。これは料理長、副料理長以外の者がそれぞれ交代で月に5回ほど任せられる仕事だった。
これが本当に大変だった。なにせ、ホール、キッチンの人間あわせて約10名分のまかないを数時間で作らなければいけないからだ。食材を切るだけでもひと苦労だった。たとえば天津飯を作るとなると、ご飯を包む卵を10回焼かなければいけない。餃子となると、ひとり8個だとしても、ぜんぶで80個包まなければいけなかった。まかないは最低でも主菜、副菜、汁物をつくらなければならず、当然おいしくなければいけなかった。料理長と副料理長も食べるのだから失敗は許されない。初めてつくる料理でも確実においしくつくる。その緊張感たるや、ストレスで胃に穴が開きそうだった。もしかしたらちょっとくらいは開いていたかもしれない。
いちど、僕がまかないでカレーを作ったとき、お米がやわらかいという理由で顔に水をぶっかけられたことがある。しかもそれ、僕が炊いたのではなく同期がよかれと思い炊いてくれたお米だったのだ。冤罪でコックコートまで水浸しになった僕は、ディナーが始まる前に外へ出てすぐに目についた発泡スチロールをボコボコに蹴り飛ばして行き場のない怒りをとりあえず発散させた。
しかしそのおかげで、僕の料理スキルは飛躍的にあがった。大抵のものはレシピを見ないでも作れるようになった。といってもそれはやはり平均的な主婦と同じくらいの技術で、内心僕はじぶんの才能のなさに焦っていた。他の人間が3回やればのみこめることを、僕は10回やらなければ追いつけなかった。地力が違いすぎる。悩んでいた。それに疲れてもいた。思考は疲労した身体に引きずられるようにしてどんどんネガティブになっていった。それに、今までじぶんが大切としてきたこと、ずっと考えてきたことが考えられず、絶えずなにかがこの手からこぼれおちていってしまってるような気がしていた。




ある日、たしか僕がなにか業務上の失敗をやらかして、それに対してたしなめる程度に注意をした関西人の副料理長が最後にこう言った。

「お前もこの道でずっと食べていこう思うんなら、もうちょっとしっかりせえよ」

この道でずっと食べていく。僕は頭のなかで副料理長の言葉を反芻し、その意味を考えた。
すると、目の前が真っ暗になった。あのとき感じた圧倒的な恐怖は今でも鮮明に思い出せる。この道でずっと食べていくということは、この道でずっと生きていくということだ。この先ずっと、死ぬまで料理人として生きていく。僕はそんな自身の姿を想像することができなかった。5年後、10年後、20年、30年……真っ暗だった。なにひとつ見えなかった。一筋の希望さえもなかった。それは違うところにあったのだ。



そして僕は料理人をやめた。諦めるよりほかなかった。料理自体は嫌いではない。しかしそれ以来、僕は料理に対して一種のコンプレックスを感じている。じぶんの作った料理を誰かが「おいしい」と言ってくれるたび、嬉しいと同時にどこか後ろめたさを感じる。「料理得意だよね」と言われるたび、違和感が胸をざわつかせる。そんなことない、と誰かの声が僕を必ずたしなめる。


店長に料理バカと言われたとき、同じ関西人である副料理長の言葉を連想したのは偶然ではなかった。料理バカだなんて、たとえ冗談でも僕にはふさわしくない。喉からでかかったけれど、抑えた。相手にとってこれは冗談なんだから、明日になったら忘れ去られるなんの意味もない会話のひとつなんだから、と言い聞かせて。


最近、料理のレパートリーを増やそうと思い立って、ネットで調べておいしそうなレシピを試している。生業としてではなく生活としての料理では、緊張感がないせいかたまに失敗したりもする。
それでいいと思う一方で、それがなんだか、すこし悲しいときもある。