ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

「外套」や「鼻」を書いたロシアの小説家といえば誰?

また台風が来るらしい。
前回の台風のときはバイト終わりがちょうど雨が激しく降っている時間帯で、傘をさしていたにも関わらず腕や靴やスボンの裾なんかがびしょ濡れになった記憶がある。台風が過ぎ去ったあと、てっきり晴れると思っていた翌朝はどんよりと曇っていて、また雨が降り、それから数日間はそんな天気が続いて、台風一過なんてまるでなかったので雨の好きな僕でもさすがに憂鬱になった。今回はどうなるんだろうか。





ゴーゴリの「死せる魂」の新訳が最近になって河出書房から出版された。
「死せる魂」は長らく絶版だったので、読みたくてもなかなか手に入らなくて困っていた小説のひとつだった。だからこの新訳の発売には本当に嬉しかった。



おとといの夕方ころにアパートを出て、近くの本屋へ向かった。お目当てはもちろん「死せる魂」と、あとこの前のNHKでやっていた漫勉で知った三宅乱丈の「イムリ」という漫画も買うつもりだった。
三宅乱丈という漫画家の存在は漫勉を見るまでまったく知らなくて、なぜこんなじぶん好みの漫画を描くひとを知らなかったのかと、悔しいというかなんというか、本当に、この世は知らないことだらけだなあということを痛切に感じた。





一軒目の本屋にはどちらも置いていなかった。
この店は半年前くらいに潰れた本屋の跡地にまた別の本屋が入ったところで、客の僕にとっては、ただ店の名前が変わっただけで品揃えも内装もほぼなにも変わっていないのでこの店もまた潰れるんだろうなと思っているのだけど、前の店と唯一違うところは、店頭でなんとなくオシャレ感のある観葉植物なんかを売っているところだろう。
久しぶりに行って僕はびっくりしてしまった。一瞬、ここ何屋だよと考えてしまうくらい、観葉植物の置かれているスペースは広かった。そのかわりに新刊の置かれているスペースが狭くなっていて、なんか、もう、本当にここは何屋だよと呆れてしまった。観葉植物が店頭を飾り、本が隅に押しやられている本屋。当然ながらそんな本屋なのか花屋なのかもわからない店に「死せる魂」が売ってるわけもなく、「イムリ」もなかったので二軒目へ。





二軒目にもどちらも置いていなかった。
あまり来ることがない店なので、海外文学の棚がどこにあるかもよくわからず探すのも面倒なので店員に聞いて検索してもらった。
「すみません。ゴーゴリの死せる魂ってありますか?」
すると、なかなか検索結果がでてこない。すこしイライラしながら待っていると店員が「タイトルはこれで本当にあってます?」と聞かれたので、滑舌の悪い僕はもしかしたら聞き間違いされてるのかなと思いつつ見たパソコンの画面に、愕然とした。
店員はタイトルの項目にゴーゴリと打っていたのだ!
嘘だろ!!?ゴーゴリ知らないの!!?
僕は思わず叫びそうになった。読んだことなくても名前くらいは知ってるだろ!!?本に関心のないひとならともかく、一応、本を売ることに携わっている人間がゴーゴリの名前すら知らないなんて!!それともおかしいのは僕なのか?ゴーゴリの名前すら知らないなんておかしいという僕のほうがおかしいのか?ていうかタイトルにゴーゴリを入力したってことは、死せる魂はどこに入力するつもりだったんだ?作者か?シセル・タマシィーっていう外国の作者だとでも思ったのか?誰だよそいつ。すこし面白そうな小説書きそうな名前じゃねえかシセル・タマシィー。
店員は30代後半くらいの女性で、冴えないメガネをかけていかにも文系な雰囲気を漂わせているくせに、ゴーゴリを知らない。そのメガネをかち割ってやりたかった。





ショックを受けつつ、三軒目へ。
ここになかったら諦めて新宿の紀伊国屋書店にいこうと思っていたら、1冊だけ置いてあって、見つけた瞬間僕はその場に崩れ落ちそうになった。
なんとか無事に「死せる魂」を手に入れ、「イムリ」はBOOK・OFFで買った。
アパートに帰り、早速読もうと死せる魂を袋からだして手に取ると、帯を金井美恵子が書いていて、そこにはこんなことが書かれていた。




私たちは小説に対して、どうしてこうも簡単に健忘症兼忘恩の徒になれるのか?


持家政策という国策のせいで、壁面を飾るべく、知的で見栄えのする家具の一種として、各出版社がこぞって「世界文学全集」を出版し、家長や主婦たちが競って買い求めた時代には、「魅せられた魂」も「死せる魂」も区別はつける必要はなかったものの(!)、ゴーゴリの名くらいは知っていた。第一、ゴーゴリを読んで、小説を書いた作家だって存在(多くはないけれど)したのだった。
時は過ぎ、世界文学としてのロシアと言えば、眼にするのはドストエフスキーのみという乏しい時代の読書上の貧しき人々の時代が続いた。(以下略)



ここに書かれている、読書上の貧しき人々の時代というものを(ちなみにドストエフスキーの小説のひとつに『貧しき人々』というタイトルの小説がある。魅せられた魂の作者はたしかロマン・ロランだったはず)身をもって体験した僕は、この金井美恵子の言葉を噛み締めながらしばらく呆然としてしまった。


また未知の小説が読めるのはすごく嬉しい。




では、また。

ファンではあることには間違いない。


今週の月曜日に「君の名は。」を観てきた。
祝日だということをすっかり忘れていたというか知らなくて、どうせ大丈夫だろうけど念のためと前日に空席状況を確認してみたらナイトシアター以外は1、2席しか空いてなくてびっくりした。
これは当日に直接チケットカウンターで買うのは厳しいなと思い、生まれて初めてネットで予約した。昔はクレジット払いだけだったから敬遠していたけど、今はケータイ払いができるようになっていてわりと簡単に予約ができた。映画のチケットを事前に買っておくなんて、なんだかできる大人っぽくてドキドキした。



7時ころに起きて準備をし、新宿へ。
天気は良くなくて、ときおりぱらぱらと小雨が降った。
映画館に到着すると、館内は人で溢れかえっていた。どこもかしこも行列。チケットを発券するのにもすこし時間がかかった。上映が開始するギリギリの時間に来たので、いつもなら必ず買うポップコーンセットを諦めなければいけなかった。平日だったら絶対に買えていたはずなのに、なぜ今日が祝日なのかと、エスカレーターに乗りシアタールームへ向かう間ずっと周囲の人間たちを呪っていた。お前ら全員末代まで呪ってやる!ていうかお前らが末代だくそ野郎!的な。そんなに嫌なら別の日にすればいいのにと自分でも思うのだが、なにがなんでもこの日に観たいという欲求はどうしても抑えきれなかった。





*ここからはネタバレを含むかもしれないのでご注意を





これまで、新海誠は一貫したテーマに対して真面目に臨んでいた。人と人とが理解しあえないもどかしさ、なにかを誰かを忘れていくことへの葛藤、移りゆく時間のさびしさやむなしさ、どうしても埋められない孤独感。そんな文学的(僕はこのフレーズが嫌いなのだけれど、ここではあえて使わせてもらう)なテーマを彼は取り扱ってきたように思う。僕はそういった感傷的で、語弊があるかもしれないけどすこし女々しくてナヨナヨした
テーマに批判的な人間ではないし、むしろ表現の仕方次第では好きなほうだし、新海誠の作品にはすごく好感を持っているほうだ。
ただ、そのテーマに対して真面目すぎるところがあって、全体として物語がずっとはりつめている印象があり、緊張ばかりで弛緩するところがなく、観ていて映像はすごく繊細で抒情的だし面白いには面白いんだけど、無駄に肩が凝るなあという感じがこれまでの作品にはあった。



今回の「君の名は。」は、その欠点が見事に払拭されていたと思う。これまでの作品にはなかったくすりと笑えるコミカルな要素があって(特に三葉のおっぱいのシーン)、物語に良い意味での隙ができたおかげで緩急ができて、シリアスなシーンがこれまで以上のシリアスさと切実さが引き立つようになっていた。


はじめの入れ替わりの見せ方もうまかった。人格が入れ替わるといういくぶん使い古されたモチーフを、普段のふたりと入れ替わったふたりを、たとえば、いつもの三葉→いつもの滝→入れ替わった三葉→入れ替わった滝と、交互に描くのではなく、冒頭で入れ替わった三葉からすぐに、いつもの三葉→入れ替わった滝→いつもの滝→入れ替わった三葉と、若干変則的描いていく進め方は、ふたりはいつ気付くんだろうとすこしじらされている感じがしておもしろかった。


後半もすごかった。まったく予想していない展開だったし、でも新海誠らしいといえば新海誠らしいなあと頷ける展開で、ふたりがはじめて出会う場面の黄昏時の映像の美しさといったら、もう。そして村のみんなを助けるために走っていく三葉といったら、もう。そしてティアマト彗星の神秘的ですこし恐ろしさも感じる映像の美しさといったら、もう。ていうか本当に綺麗だよなぁ、新海誠の作品って……。



しかし、唯一、いや、細かいところを挙げていけばキリがないのだけど、唯一!ここはなんでこんな風にしちゃったんだよマジでってところがあった。ここがちゃんとしていれば、僕は後半ずっと泣いていただろう。それこそ隣に座っていた30代後半くらいの女性を余裕でヒカせるくらいには泣いていただろう。けれど僕は泣かなかった。年をとったのと最近いろいろありすぎて情緒不安定で涙もろくなった僕がそのシーンのせいで泣けなかったのだ。別に泣きたかったわけではないけど、ある種のカタルシスがなかったというのは、けっこうキツイ。




その問題のシーン、それは、ふたりが入れ替わったことに気付いて、ふたりで入れ替わったときのルールを決めて、だけどうまく噛み合わなくて喧嘩をするという場面。


なぜここをハイライトした……?


いや、喧嘩をするところまではハイライトでもまあ許せる。だけど、そのあとだ。
入れ替わった生活がテンポ良くハイライトで流れ、自分の生活を乱された相手を罵っところで、次に先輩とのデートのエピソードが入り、そして別れ際に先輩が「たぶん、はじめは私のことが好きだったよね。でもいまは、ほかに好きなひとができた、ちがう?」と言う。


は?と僕はきょとんとしてしまった。
自分の私生活を乱しまくった「だけ」の相手を好きになるか、普通。
相手の生活を知って、尊敬ってほどではないにしろなにか見直すところがあったり、なにかをきっかけにして意気投合したりしたエピソードなり場面があったなら話は別だ。それなら先輩の言った発言も素直に捉えられただろう。でもそんなふたりが仲良くなる過程は一切描かれていないし、入れ替わったことに気付く前と後で、ふたりの距離感が変化したかどうかと言われると、してないんじゃないか、と僕は思ってしまう。
顔にマジックでバカとかアホとか書くくらいにうっとおしい存在の相手を、仲の良い友達としてならともかく(それにさえ無理があると僕は思う)、果たして必死に追い求めるほど好きになれるものなのだろうか。喧嘩するほど仲が良いなんてことわざは、この場合には当てはまらないだろう。仲の良い人間同士がいつも喧嘩をしてるわけではないのだから。けれどふたりは入れ替わるたびに、相手の振る舞いに不満を持って喧嘩をする「だけ」の場面しかなかった。そんな相手を果たして好きになるだろうか?
だから僕はここらへんからおいてけぼりをくらい、後半でまったく泣けなかった。
もともとふたりは惹かれあう運命だったんですよ……とか根拠のない暴論を吐かれたらもうそこで試合終了なわけだけど、たしかにふたりがお互いを好きになったのに理由はなくてもいいのかもしれない。誰かを好きになるということに理由なんていらない。でも、あれだけちゃんと綿密につくられた物語なのに、肝心のふたりがおたがいのなにかに惹かれるシーンがないというのはいかがなものか。
まあ、でも本当におもしろかった。RADWIMPSの曲も最高だったし。絶対アルバム買うわこれ。




上映が終わり、僕はトイレへ駆け込んだ。ポップコーンセットを買わなかったのでいつもほどの尿意を感じてはいなかったけれど、それでもやはり出したいものは出したかった。
映画を一本観終わった疲れとあいまって一抹の虚脱感とともに小便をしていると、となりで同じく小便をしようとしている少年が「マジかよ…マジかよ…」とつぶやきはじめた。
そのただならぬ声に、なにごとかと少年の視線を追ってみると、彼のジーンズの裾からなにかの水滴がぽたぽたと垂れていて、靴はちょっとした水たまりに浸っていた。どうやら、寸前ところで我慢の限界がきてしまったらしい。マジかよ…と僕が頭のなかでつぶやいている間にも、彼は焦りと絶望のいりまじる声で「マジかよ…マジかよ…」と祈るように連呼していた。
どうするんだろうと思って、でもあんまりじろじろ見るのも可哀想だから横目でうっすら見守っていると、こういうとき人間というのは語彙が少なくなるものなのだろう、少年はまだずっと「マジかよ…マジかよ…」とつぶやきながら、とりあえずどうすることもできないからトイレを出て、そして立ち止まり、そして、「あー、マジかよ…」と言った。
もうちょっと見ていたかったけど、人混みにいると気持ち悪くなる体質なので僕は絶望しきった少年を置いて映画館をでた。

恵みの夜

墓地の塀を見上げると、牡丹桜の梢が塀を乗り越えて道まではみでている。
初夏には瑞々しく艶のあった緑の葉も夏の喧騒を過ぎた今では埃や排気ガスで薄汚れて、虫の食べた小さな穴が所々に開いている。けれど、夜、外灯に上から照らされて透ける葉脈たちは相変わらず綺麗だ。
陸橋近くの塀には蔓草が絡みついているのだけれど、たしか6月あたりに1度塀の半分を覆っていたのをすべて取り払われてしまった。それでも雑草は強いもので、2ヶ月しか経っていないのにはやくも塀の隅を埋めるくらいには伸びはじめて、山羊の足のような三ツ又に分かれた葉を少ないながらも揺らしていた。蔓草の葉が揺れて擦れあう音は聞いていてなんでこんなに気持ちいいんだろうかと考えて、そうか、風を感じるからだ、と思った。風がいまそこにいることを感じさせてくれる音。どおりで涼しさを感じるわけだ。
塀に小便をして黒い染みをつくった飼い犬が、今度は細い脚をプルプルさせながら踏んばってうんこをしているところに出くわした。墓地の塀にそんなことして罰当たりな、金玉が腫れても知らないぞ、と思ったけれど、それは稲荷神社だったっけ?とすこし考える。



空気にすこし秋の気配が混じっている。今夜は月がまんまるらしい。冷房ずっとつけっぱなしだったのに電気代が2000円台だった。去年とかはたまにつけたりして7000円くらいだったのに。エアコンはつけっぱなしがいいというのは本当だった。すこし嬉しかった。



ボルヘスを久しぶりに読んでいる。「砂の本」。ボルヘスの知識量は尋常ではなく、特に神学においては知らないことはないんじゃないかというほど、知識から知識へと横断する際のその距離が遠すぎて、ただついていくのでも苦労する。むしろついていけてないことのほうが多い。その特性は小説よりもエッセイのほうがすごいのだけれど。
砂の本に収録されている短編のなかでは、やはり「他者」と「疲れた男のユートピア」が好きだ。こうして並べてみると、前者は過去と、後者は未来と現在がなにかの手違いで接続されてしまう話だ。あと意外と「人智の思い及ばぬところ」もいい。
解説しようかと思ったけど、めんどくさいからまたの機会にでも。





NHKでやっていた新海誠川上未映子の対談で、川上未映子が、

「いつかじぶんは死ぬんですよ!それってすごくないですか?ここにいるみんな、いつかは絶対に死ぬ。なのにみんなこのすごさをわかってくれない。たぶんテレビの前のひとも、はあ?あたりまえじゃんって思ってるんでしょうけど」

と言っていて、じぶんと同じようなことを真剣に考えて抱えて生きている人間がたしかにいるんだなあ、よかったあと思ったら、涙がでてきた。「君の名は。」はとりあえず観たい。しかしいったいこの人気はどういうことなんだ?言の葉の庭のときなんか全然注目されてなかったのに。しかも聞けば観にくる客層のほとんどがカップルらしいじゃないか。おかしい。新海誠の映画は童貞心をくすぐられる映画(誉めてます)のはずなのに。すべての作品に一応目を通していて、いくつかのものには好感を持っている人間としては、果たして新海誠は変わってしまったのか是非映画館で確かめてみなければいけない。



では、また。

帰ってきたウルトラマン

新幹線が東へと向かうにつれて、雲は厚くなり色も黒ずんで窓の外は見るからに不穏な空気をはらんでいた。
新富士駅に到着したあたりで窓に水滴がひとつふたつとつきはじめて、新幹線が加速するにつれ、いくつかは不格好な線を残しながら、またその他のいくつかはおたまじゃくしのように横へ横へとずれていき、やがて本降りの場所に突入すると、水滴はなくなり薄い水の膜が窓を覆った。



楽しい1週間だった。
帰省する前日に神奈川に住む友人の家に泊まったのもあってか、いつもより日程が長く感じた。けれどバイト先とアパートを往復する東京での日常よりは短く感じて、なんだか変な気分でこれを書いている。
生まれ育った土地に帰ることがしだいに"非日常"化していくのを、年をとるごとに強く感じる。好き勝手にふらふら生きているどら息子の僕に対して、両親は文句ひとつ言わず協力的で関係も良好だし、数少ない友人たちは昔と変わらない態度で歓迎してくれる。それでも、僕がそこにいなかったという空白の時間がそのあいだに横たわっているのを、やはり感じずにはいられない。これは決してネガティブな感情ではなく、地元を離れて暮らしている人間なら誰もが抱くものなのだと思う。空白の時間は、家の近くにあったはずのローソンがつぶれてコンビニ特有の四角い建物だけが残っていたり、もうすぐ60歳になる父親ムエタイをはじめたり、友人がおいしい油そばを出す知らない店につれていってくれたりすることからも感じる。ときおりもどかしくもあるけれど、それをすこし楽しんでいる自分もいる。



どうせだったら地元で過ごした1週間をここにコト細かく具体的に書いてみようかと思ったけれど、めんどくさいのでやめておく。


雲に切れ間ができはじめて、よくある田舎の風景に鈍い光が差した。それでも雲は厚く、黒ずんでいる。雨は降っていない。



地元で読む用に何冊かの本をけっこう悩みながら選んで持っていたのに、けっきょく実家にあった柴崎友香の「寝ても覚めても」を読んでいた。帰る前夜に読み終わって、興奮してなかなか眠れなかった。前半はめちゃくちゃ面白かったのに、後半の尻すぼみ感がもったいなかった。前半にあったなにげない強烈なリアリティが後半ではあるにはあるけれど主人公が意中の相手との再会にとらわれすぎているせいか弱まっていて、デシカメやテレビなどの視点を拝借して空間や時間を語るのを繰り返すばかりで、面白かったけれど、もったいない。面白かったけれど。そしてたぶん読んだ人なら分かるだろうが、今ここに書いている文章は「寝ても覚めても」の文章に多少なりとも影響されている。影響されやすいんです、僕。




通路をカランカランと音を立てながら缶コーヒーが転がっていった。もう品川だ。やっぱり新幹線は速いなあ。



次に帰省するのはたぶん来年の冬ころになるだろうと、はやくも期待に近い予感がしている。そのころには、今書いている小説がちゃんとした形で完成していればと、こちらは期待ばかりが先行している。



では、また東京で。

水曜どうでしょうに関する新たな?仮説 後編


第3夜、大泉さんがお決まりの台詞「ダメ人間!」でミスターを罵倒してから、豊頃町へと出発する。
次のカットで、運転は大泉さんからミスターにかわった。
車に乗り込んで出発するまでのこの間、4人にどんな話し合いがあったのか、もちろん僕にはわからない。だからこれもやはり憶測になるが、藤やんとミスターのあいだでこの企画に対する意向に齟齬が生じたのではないだろうか。


ここで一度、カントリーサインの旅の「企画の目的」の在り方について整理しよう。


「企画の目的」というのは、サイコロの旅でいえば「北海道の目をだす」ことで、つまり四人が向かわなければいけない、やり遂げなければいけないものを指す。
水曜どうでしょう全体で考えると、「企画の目的」は大体ふたつの種類に分けられる。

ひとつは「運」もの。四人の意志に関係なく、ただ運命だけに左右される企画。(サイコロの旅、韓国食い道楽の旅、オーロラの旅、釣りバカなど)

もうひとつは「努力」もの。四人の頑張りが目的達成に大きく関わる企画。(オーストラリア縦断の旅、ヨーロッパ21ヶ国制覇の旅、アメリカ横断、ベトナム縦断など)

つまり企画のタイプは、目的を達成するために必要な最大の要因、「運」と「努力」で分けることができる。
サイコロの旅で四人は度重なる移動の苦しさに耐え忍ぶけれど、その努力は北海道の目をだすこととは無関係だ。ベトナム縦断では数々の災難に見舞われてどうでしょう班の運のなさを見せつけれてくれるが、最終的には四人の(この場合はミスターと大泉さんだが)ゴールへ向かおうとする努力が企画の目的達成を導いている。

では、カントリーサインの旅はどちらに分けられるのか。

まず、企画の目的としては、「北海道内のカントリーサインをすべて見てまわる」という主旨からしても、「努力」ものに入るだろう。「ヨーロッパの国をすべてまわる」というヨーロッパ21ヶ国制覇の旅とほぼ同じ目的を持っている。ひとつの場所を目指すのではなく、道内をすべて回るというからには、彼らの努力なしには目的達成は考えられない。

だが、ここでルールをあらためて確認してみよう。「カントリーサインが印刷されたカードをランダムに引いて、その引いたカントリーサインを見に行く」。このルールはサイコロの旅のルールとほぼ同じだ。つまり「運」を必要とする企画とルールが同じなのだ。道内をすべてまわらなければいけないのに、行き先は運が決める。これがなにを意味するのか。
それはカントリーサインの旅が、目的を達成するためには「運」と「努力」が両方なければいけない、世にも恐ろしい複合型の企画なのだということだ(!!)
ヨーロッパの旅のように虱潰しにまわることができず、気まぐれで残酷な「運」が行き先を左右するなかで、道内をすべてまわる「努力」をしなければならない。
しかも移動はレンタカー。運転しないですむ深夜バスのほうがまだいくらかマシだろう。しかもヨーロッパやオーストラリアとは違い、窓から見える景色は道民には見なれた地味な画ばかり。どの企画よりも辛いにも関わらず、番組として大した盛りあがりがない。ハイリスクローリターン。地獄だ。思ってたよりも地獄だ。四人の誰もがそう思っただろう。


そこで、藤やんとしてはこの企画、北海道の212市町村をすべてまわるという当初の目的にある程度の見切りをつけて、(というかもともとそのつもりだったのだろうが)豊頃町へ向かう途中にある先々で有名なものなり場所なりをふたりに紹介させて回る方向にシフトしようとしていた。
全シリーズを通じて、藤やんは目的達成が困難だと分かると、こういう手段をとる傾向にある。
それはつまり、企画の目的はあくまでも番組の軸がブレないためのひとつの指標にすぎず、絶対に達成しなければいけないものではなく、むしろその過程(道中)で起きる面白い出来事なりハプニングなりを起こせればそれでいいという考えが底にあるからだ。
あと、単純に休みたいというのもあるだろう。まだ2日目とはいえ、不眠不休で道内の移動を繰り返し、体力も限界にきていた。ここでひとつ休憩をはさんで、そのあとはなるべく無理のない移動をすればいい。大泉さんも車に乗り込む前にそう言っている。


しかし、ミスターはそれに反対する。


企画者であるミスターは、藤やん同様、北海道212市町村すべてをまわることが不可能だということは分かっていた(と思う)。しかしミスターは企画の目的が「努力」ものである場合、たとえ不可能であろうが、なにがなんでも目的達成をしようとする誠実な姿勢を視聴者に見せることを重視する(ヨーロッパ21ヶ国制覇の旅でもそうだった)つまりこのまま休憩はせずに移動を続ける意志を示した。
今でこそアフリカの旅ではカメレオンを愛でるだけのご隠居になってしまったミスターだが、この頃のミスターはやる気に満ち溢れていた。自分がこの番組を引っ張っていくという気概に溢れていたのだ。212すべてまわると言っておいて、4つか5つで終わっては格好がつかない。なら限界まで頑張ろうじゃないか。これがミスターの考え方だったのではないだろうか。



藤やんとミスターの力関係はよくわからないが、このとき、ミスターの意向が採用されたのだろう。
こうしてミスターの過酷な合宿計画がはじまる。


運転は大泉さんからミスターにかわり、四人は豊頃町を目指す。休憩すると言っていたのに、大泉さんと藤やんは寝ずにカメラを回している。ミスターが回そうと言ったのか、四人が起きていなければいけない状況だから回しているのかはわからない。
車中では大泉さんがこんな無茶な企画を考えたのと休ませてくれないミスターに対する不満をそれとなくほのめかすトークで笑いを誘う。それに藤やんも同調する。ミスターは彼らの態度にすこし不機嫌になり、察したふたりは場を和ませようとなんとか苦心する。
午前9時、美瑛で朝食。広大な畑のそばでコンビニのカレーを食べながらした大泉さんのモノマネも空回り。もうみんな限界なのだ。
四人は移動をつづけ、新得町新得そばを食べるが、そこにミスターの姿はない。ミスターは疲れて寝ているというシーンが挟まる。

そして問題のシーン、ミスターが「おはようございます」と挨拶してからしゃべりだし、「それでは、おやすみなさい!」と言うところまで、このときの大泉さんの表情に注目してほしい。
このときの大泉さんの顔は、怒っているのを我慢している人がする表情なのだ。怒っているのを隠すために無理に明るく振る舞おうとしている表情、そうは見えないだろうか?

では大泉さんは何に怒っているのか?

それはもちろん、このまま移動をつづけると主張したミスター本人がひとりだけ寝ていることに対してだろう。ミスターの「おはようございます」に藤やんは「みんな起きてるよ」と愚痴っぽくこぼしたとおり、大泉さんはひとりだけ寝ているミスターにかすかな憤りを感じていたのではないだろうか。

そのあともミスターは眠り、ふたりから「いちばんやられてるじゃん」と責められてすこし弱気になったところで、豊頃町にようやく到着する。ここで第3夜が終わる。


第4夜、午後1時15分、豊頃町に到着したどうでしょう班は、ほとんどヤケクソと言ってもいいテンションでカントリーサインを引く。
次に引いたのは鹿部町。今度は豊頃町に向かったときよりもさらに長い道のりになる。だれもが言葉を失うなか、ミスターは言う。

「よし!行こう!」

次のシーンは鹿部町へどう向かうかの算段をしているところからはじまる。
つまりまだミスターは諦めていないのだ。このまま移動をつづけるとすれば、距離からして徹夜は免れないだろう。車中泊だとしても、体験したことがあるひとなら分かるだろうが、車中泊はほとんど寝た感じがせず、むしろ疲労感が増してものすごく辛いのだ。2日連続でほとんど満足に眠れない地獄が待っているというのに、ミスターはなおも移動をつづけようとする。

そして、あの有名なシーンに突入する。

四人は高速で白老を抜けて登別にさしかかったところでカメラを回す。
ミスターはたぶんまた寝ていたのだろう、かすかに鼻声で、発言も弱気だ。しかし、まだ続行する意志を見せる。

そんなミスターに、大泉さんは不満を爆発させる。212ぜんぶまわるなんて無理なんだからやめましょうよということをそれとなく匂わせる発言をおもしろおかしくまくしたてる。それでもミスターは食い下がろうとするけれど、大泉さんの勢いに呑まれてしまう。
このときの車内の空気はかなり険悪だったのではないだろうか。「ギリギリですよ?」と言う大泉さんの表情が本気なのだ。本気で苛ついている表情なのだ。ミスターの顔も強張っている。

そして、トンネルに入ると、大泉さんと藤やんのふたりは笑い出す。しきりに「行くんだよね?ね?」と藤やんに確認する大泉さん。「行くんだから、行くんだから」と言いながら笑うふたり。
「行こう、行こう、行きましょう!行きましょう!ささあ、行きましょう行きましょう!」
そう言いながら大泉さんは、登別インターチェンジへとハンドルを切る。本来ならばそのまま高速にのっていなければいけないのに。
鹿部はこっちだ!鹿部へ行くよ!待っててくださーい!鹿部町のみなさーん!」と大きな声をあげながら向かったのは、登別温泉。見方によってはかなり緊張感のあるシーンだ。
次にどうでしょう班が温泉に浸かる場面が流れ、そしてそのままホテルに一泊。
翌朝、「ホテルに行こうって言ったのはミスターだからね」という補足がはいり、あらためて旅がはじまるわけだが、あのときの空気感からして、ミスターはそんなことは言ってないだろう。ふたりがミスターには黙って登別に行くことを決めたのは明らかだ。厳密には藤やんが決めたのだろう。ミスターが寝ている隙に大泉さんにトルネルを抜けると登別インターチェンジがあるからそこを降りて登別温泉に行こうと指示したはずだ。

この、ミスターが寝ている隙に行き先を変更するやり方は今後のシリーズを通して何度か実行されている。
ヨーロッパの旅でもそうだし、アメリカ横断でもある。しかしそれらとこのカントリーサインの旅の違いは、前者はふたりの交わす密談を視聴者に示し、あとになってミスターに怒られるという一連の流れが確立されているのに対して、後者は密談が省かれてさも四人ともが登別温泉に行くことを知っているかのように編集されている。


ここまで書いて、最初に僕が提起した「本当に「やらせ」はなかったのか」という問いに立ち戻ってみると、これはやらせと呼ぶにはちょっと違和感がある。やらせというよりは、内輪のいざこざをどうにかして笑いに変えた結果であって、やはりこれはやらせではないし、もしかしたらDVDの副音声でこのことが語られているかもしれないから、新たな仮説ですらないかもしれない。
ただ、どうでしょう班が視聴者にすべてを包み隠さず見せているということに対しては少なからずの異議を唱えられたのではないだろうか。
水曜どうでしょうはテレビ番組という「作品」なのだから、そこにある程度の作為があるのは当たり前なのだ。

それにしても、僕がこうして書いてきたものはあくまでもゴシップ的な文章に過ぎず、自らがあらかじめ想定した結論へ悪い意味でうまく着地できなかったし、なによりもどうでしょうの良さをまったく書けなかったのは、自分の力不足でしかないのですごく悔しい。
次回はもっとちゃんと水曜どうでしょうの良さを伝えられるように頑張ろう。


では、また

物語作家の矜持と覚悟

5月の初々しい暖かさがだんだんと蒸し暑さに変わってきたと思ったら、梅雨になっていた。
毎年、梅雨というわりにはあんまり雨が降らないので拍子抜けする覚えがあるけれど、今年はどうもそうならないような気がする。梅雨入り宣言がされてから、ほとんど毎日のように降っている。朝から夕方ころまでずっと降っている日もあれば、夜から降りだして、朝になると路面が濡れているだけでお昼には雲ひとつない快晴になる日もある。とにかく雨、雨、雨で、外出するときは傘を持っていこうか迷わない日は当分来そうにない。雨が好きな僕としては、べつにそれでいいのだけれど。アパートの近くに植えられている紫陽花は、今年も綺麗な色の花、ではなくてガク?を咲かせてる。
雨の匂いがこもる道をひとりで歩くのは退屈で、できれば気兼ねなく散歩に誘えて、話の合う男友達が近くにほしい。女友達でもいいけれど、歩いているうちにムラムラしてきそうだから、やはり男友達がいい。とりとめもない会話。久しくそんなことをしていない。というか人とろくに会話をしていないので、ちゃんとした言葉を喋れるのだろうか、不安。その前に友達をつくらないとな、とクラス替えをしたばかりの高校生みたいなことを考えたりしている。


久しぶりに「バベットの晩餐会」が観たくなって、観たくて観たくていてもたってもいられなくなり、急いでTSUTAYAに行ったらすでに誰かに借りられていて、諦めきれず普段は遠すぎるからAVを借りるためにしか行かないGEOにも行ったのに、GEOには置いてすらなくて、悶々としながら2、3日を過ごしつつ、そのあいだにもTSUTAYAへ足しげく通いつめるけれど、バベットの晩餐会のケースは空のままで、そして4日目のバイト終わり、ようやくケースに収まれたDVDを見つけたとき、「あぁへぁあ~」と思わず我ながら気持ち悪い安堵のため息がでてきた。
なんでこんな衝動的に観たくなったかといえば、この映画の原作者であるイサク・ディネセンの小説を読んだからだった。


ディネセンの小説は20世紀に書かれたものなのに、19世紀的な小説が多い。時代設定がほとんど19世紀に据えられているというのも理由になるかもしれないけれど、むしろそれは作者が意識的に選んだことなのだと思う。ニーチェが西洋独自の形而上学的思考を根本から否定し、信仰の地盤を揺るがす以前の時代、そして小説というジャンルがまだ未発達であり、だからこそ物語と未分化な状態で、ある種の親和性を保っていた時代をディネセンがあえて選んだのは、彼女が根っからのキリスト教圏らしい物語作家だったから、なのだと思う。彼女の描き出す魅力的で卓越した物語を存分に活かせる場として、19世紀という時代が選ばれたのは、必然だった。舞台が20世紀では、彼女の描く人物たちはあまりにもナイーヴすぎるし、展開もドラマチックに映ってしまう。カフカムージルやジョイスが現れてしまった以後の小説世界では、小説と物語が仲良く手をとりあって進んでいくことを許してはくれない。だからこそ、ディネセンは小説の舞台を19世紀に設定することで、信仰を軸にしたものすごく面白い19世紀的な物語を創りだしていくことができた。

「老男爵の思い出話」という短編がある。題名のとおり、老男爵が若かりしころの思い出を「私」に話して聞かせるという、「千夜一夜物語」を思わせるちょっとした入れ子構造で、小説は進んでいく。

冒頭、男爵はなぜかパリの街角のベンチでうなだれている。理由は、不倫していた伯爵夫人に危うく殺されかけたところだったからだ。彼は彼女のことが大好きだったけれど、彼女にとって男爵は夫の嫉妬心を煽るための道具でしかなく、その日、無理やり押しかけてきた男爵にイラつき、コーヒーに毒を入れて殺そうとした。間一髪のところで男爵はコーヒーに毒が入っていることに気がつき、伯爵夫人宅から逃げ出す。そして、雨がふる夜に、恋人に殺されかけたショックでひとりベンチに腰かけていたというわけ。
そこにひとりの若い娘があわられる。まあ、この時代に若い娘が夜中ひとりで歩いているとなれば、十中八九、娼婦だろう。男爵が笑うと彼女も笑いかけ、男爵が家に帰ろうとたちあがり歩きだすと、娘もそのあとについてくる。
で、ふたりは男爵宅に着き、雨に濡れた服を脱ぐ。男爵は若い娘のたぐいまれな美しさに驚き、興奮する。そして用意されていたディナーを裸のまま食べて、彼女が歌をうたう。その歌声の非凡さに男爵は驚き、興奮する。それからふたりはベッドで抱きあい、そこで彼女が処女であったことを知り、男爵はまた驚き、興奮する。これは神から与えられた贈り物なのだと、夢のような時間を過ごして眠りにつく。1、2時間して起きると、娘は着替えていた。そして、お金を要求する。「マリーがそう申しますの。20フランもらうようにって」と言って。そこでようやく男爵は、彼女を神の贈り物なんかではなく、ひとりの人間として認識する。お金を渡し、彼女は立ち去る。ここで老男爵はじぶんなりに考えた彼女の正体を語りだす。



この娘は誰か係累がいて、それが重石になっているに相違ない。独り身ならこんなことにはならなかっただろう。娘を頼りにしているが助けることはできない誰か。ひどく年取って、没落の衝撃で手も足も出なくなった人か、それとも年端もゆかない弟妹か。(中略)ところが、ナタリー(娘のこと)は持ち前の自信と輝きをつちかわれた美と調和にみちた環境、歌うすべを習い、あれほど明るく笑い、優雅にふるまい、誰からもいとしまれていた環境から、美も品位もなんら意味をもたない別の世界へと、まっさかさまに墜落したのだ。そこで人生の冷厳な実情に直面する。破滅、みじめさ、飢えへと一直線に突き進む。その下降する梯子の最後の足がかりで、どんな人かはわからないがマリーなる知り合いが、持ち合わせのわずかな世間知をしぼってナタリーに助言をした。そしてみすぼらしい服を貸してやり、元気づけになにか強い酒を飲ませたのだ。



このへんを読んでいて、こういう考え方は男特有のものではないかと僕は思った。美しい女が不遇に扱われていると、それは彼女のせいではなく、周囲の環境や人が悪いだけで、彼女自身は清らかでなんの罪もないみたいな、ひどくロマンチックで都合のいい考え方をする傾向にある。ここで大半の男は、俺が守ってあげなくちゃ!と燃え上がるわけだが、んなわけないのにね。
ここで話が終わってしまったらただのラブロマンスで終わってしまうが、そうはならない。
男爵はその日から彼女を探し出そうと街中を探しまわるのだが、結局見つからない。それから15年後、ある画家の邸宅を訪ねたときだった。画室にある頭蓋骨を見て、あのナタリーに似ていると、男爵は突然思い当たる。美しい一夜の恋の物語がグロテスクな様相を帯び、なにか不穏な気配を漂わせたところで、この老男爵の思い出話は終わる。見事としかいいようのない幕引き。
ここに書いたのはかなり大雑把なあらすじだけで、男爵と伯爵夫人と伯爵の複雑な関係性とか、いかにナタリーが美しいかを当時の服の形態についてをまじえながら語る描写も省いたので、この短編の魅力がちゃんと伝わっているか不安だ。でもこうやってあらすじだけを抜き出してみると、僕の説明が下手というのもあるかもしれないが、やはり小説を形づくるのは細部なんだなあと改めて実感した。たとえば、ナタリーが別れ際に男爵にした動作、


紙幣を左手に持ったまま、娘はわしに身を寄せて立った。別れのキスもしなければ、握手をするでもない。ただ、右手の指三本をあごに当ててわしの顔を上向かせ、じっと眼を見つめた。別れるとき姉が弟に与えるような、はげましとなぐさめのこもったまなざしだった。そして立ち去っていった。


なんて素晴らしい場面だろうか。ここを読むと、ぐっと胸を締め付けられる。


映画の「バベットの晩餐会」は、ディネセンの文章と物語の持つ魅力が映像へと完璧に再現されているので、ぜひ観たほうがいい映画のひとつ。堅苦しくないし、観たあと、優しい気持ちになれるよ。


では、また

古くさい詩みたいなもの。


雨が響く軒下で、


虹を待つ少年


雲の切れ間には 天使が住んでるって話。


カエルの大合唱


のかわりに、都会では


遅延のホームで こだまする舌打ち。


ビルの谷間には 黒猫が捨てられてるって噂。


放課後の射撃ごっこ「バン!バン!」


流れ弾が水たまりに、世界が揺らぐ。


雫が垂れる軒下で、


虹を待つ少年


紫陽花の葉陰に カタツムリはいないって事実。