ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

物語作家の矜持と覚悟

5月の初々しい暖かさがだんだんと蒸し暑さに変わってきたと思ったら、梅雨になっていた。
毎年、梅雨というわりにはあんまり雨が降らないので拍子抜けする覚えがあるけれど、今年はどうもそうならないような気がする。梅雨入り宣言がされてから、ほとんど毎日のように降っている。朝から夕方ころまでずっと降っている日もあれば、夜から降りだして、朝になると路面が濡れているだけでお昼には雲ひとつない快晴になる日もある。とにかく雨、雨、雨で、外出するときは傘を持っていこうか迷わない日は当分来そうにない。雨が好きな僕としては、べつにそれでいいのだけれど。アパートの近くに植えられている紫陽花は、今年も綺麗な色の花、ではなくてガク?を咲かせてる。
雨の匂いがこもる道をひとりで歩くのは退屈で、できれば気兼ねなく散歩に誘えて、話の合う男友達が近くにほしい。女友達でもいいけれど、歩いているうちにムラムラしてきそうだから、やはり男友達がいい。とりとめもない会話。久しくそんなことをしていない。というか人とろくに会話をしていないので、ちゃんとした言葉を喋れるのだろうか、不安。その前に友達をつくらないとな、とクラス替えをしたばかりの高校生みたいなことを考えたりしている。


久しぶりに「バベットの晩餐会」が観たくなって、観たくて観たくていてもたってもいられなくなり、急いでTSUTAYAに行ったらすでに誰かに借りられていて、諦めきれず普段は遠すぎるからAVを借りるためにしか行かないGEOにも行ったのに、GEOには置いてすらなくて、悶々としながら2、3日を過ごしつつ、そのあいだにもTSUTAYAへ足しげく通いつめるけれど、バベットの晩餐会のケースは空のままで、そして4日目のバイト終わり、ようやくケースに収まれたDVDを見つけたとき、「あぁへぁあ~」と思わず我ながら気持ち悪い安堵のため息がでてきた。
なんでこんな衝動的に観たくなったかといえば、この映画の原作者であるイサク・ディネセンの小説を読んだからだった。


ディネセンの小説は20世紀に書かれたものなのに、19世紀的な小説が多い。時代設定がほとんど19世紀に据えられているというのも理由になるかもしれないけれど、むしろそれは作者が意識的に選んだことなのだと思う。ニーチェが西洋独自の形而上学的思考を根本から否定し、信仰の地盤を揺るがす以前の時代、そして小説というジャンルがまだ未発達であり、だからこそ物語と未分化な状態で、ある種の親和性を保っていた時代をディネセンがあえて選んだのは、彼女が根っからのキリスト教圏らしい物語作家だったから、なのだと思う。彼女の描き出す魅力的で卓越した物語を存分に活かせる場として、19世紀という時代が選ばれたのは、必然だった。舞台が20世紀では、彼女の描く人物たちはあまりにもナイーヴすぎるし、展開もドラマチックに映ってしまう。カフカムージルやジョイスが現れてしまった以後の小説世界では、小説と物語が仲良く手をとりあって進んでいくことを許してはくれない。だからこそ、ディネセンは小説の舞台を19世紀に設定することで、信仰を軸にしたものすごく面白い19世紀的な物語を創りだしていくことができた。

「老男爵の思い出話」という短編がある。題名のとおり、老男爵が若かりしころの思い出を「私」に話して聞かせるという、「千夜一夜物語」を思わせるちょっとした入れ子構造で、小説は進んでいく。

冒頭、男爵はなぜかパリの街角のベンチでうなだれている。理由は、不倫していた伯爵夫人に危うく殺されかけたところだったからだ。彼は彼女のことが大好きだったけれど、彼女にとって男爵は夫の嫉妬心を煽るための道具でしかなく、その日、無理やり押しかけてきた男爵にイラつき、コーヒーに毒を入れて殺そうとした。間一髪のところで男爵はコーヒーに毒が入っていることに気がつき、伯爵夫人宅から逃げ出す。そして、雨がふる夜に、恋人に殺されかけたショックでひとりベンチに腰かけていたというわけ。
そこにひとりの若い娘があわられる。まあ、この時代に若い娘が夜中ひとりで歩いているとなれば、十中八九、娼婦だろう。男爵が笑うと彼女も笑いかけ、男爵が家に帰ろうとたちあがり歩きだすと、娘もそのあとについてくる。
で、ふたりは男爵宅に着き、雨に濡れた服を脱ぐ。男爵は若い娘のたぐいまれな美しさに驚き、興奮する。そして用意されていたディナーを裸のまま食べて、彼女が歌をうたう。その歌声の非凡さに男爵は驚き、興奮する。それからふたりはベッドで抱きあい、そこで彼女が処女であったことを知り、男爵はまた驚き、興奮する。これは神から与えられた贈り物なのだと、夢のような時間を過ごして眠りにつく。1、2時間して起きると、娘は着替えていた。そして、お金を要求する。「マリーがそう申しますの。20フランもらうようにって」と言って。そこでようやく男爵は、彼女を神の贈り物なんかではなく、ひとりの人間として認識する。お金を渡し、彼女は立ち去る。ここで老男爵はじぶんなりに考えた彼女の正体を語りだす。



この娘は誰か係累がいて、それが重石になっているに相違ない。独り身ならこんなことにはならなかっただろう。娘を頼りにしているが助けることはできない誰か。ひどく年取って、没落の衝撃で手も足も出なくなった人か、それとも年端もゆかない弟妹か。(中略)ところが、ナタリー(娘のこと)は持ち前の自信と輝きをつちかわれた美と調和にみちた環境、歌うすべを習い、あれほど明るく笑い、優雅にふるまい、誰からもいとしまれていた環境から、美も品位もなんら意味をもたない別の世界へと、まっさかさまに墜落したのだ。そこで人生の冷厳な実情に直面する。破滅、みじめさ、飢えへと一直線に突き進む。その下降する梯子の最後の足がかりで、どんな人かはわからないがマリーなる知り合いが、持ち合わせのわずかな世間知をしぼってナタリーに助言をした。そしてみすぼらしい服を貸してやり、元気づけになにか強い酒を飲ませたのだ。



このへんを読んでいて、こういう考え方は男特有のものではないかと僕は思った。美しい女が不遇に扱われていると、それは彼女のせいではなく、周囲の環境や人が悪いだけで、彼女自身は清らかでなんの罪もないみたいな、ひどくロマンチックで都合のいい考え方をする傾向にある。ここで大半の男は、俺が守ってあげなくちゃ!と燃え上がるわけだが、んなわけないのにね。
ここで話が終わってしまったらただのラブロマンスで終わってしまうが、そうはならない。
男爵はその日から彼女を探し出そうと街中を探しまわるのだが、結局見つからない。それから15年後、ある画家の邸宅を訪ねたときだった。画室にある頭蓋骨を見て、あのナタリーに似ていると、男爵は突然思い当たる。美しい一夜の恋の物語がグロテスクな様相を帯び、なにか不穏な気配を漂わせたところで、この老男爵の思い出話は終わる。見事としかいいようのない幕引き。
ここに書いたのはかなり大雑把なあらすじだけで、男爵と伯爵夫人と伯爵の複雑な関係性とか、いかにナタリーが美しいかを当時の服の形態についてをまじえながら語る描写も省いたので、この短編の魅力がちゃんと伝わっているか不安だ。でもこうやってあらすじだけを抜き出してみると、僕の説明が下手というのもあるかもしれないが、やはり小説を形づくるのは細部なんだなあと改めて実感した。たとえば、ナタリーが別れ際に男爵にした動作、


紙幣を左手に持ったまま、娘はわしに身を寄せて立った。別れのキスもしなければ、握手をするでもない。ただ、右手の指三本をあごに当ててわしの顔を上向かせ、じっと眼を見つめた。別れるとき姉が弟に与えるような、はげましとなぐさめのこもったまなざしだった。そして立ち去っていった。


なんて素晴らしい場面だろうか。ここを読むと、ぐっと胸を締め付けられる。


映画の「バベットの晩餐会」は、ディネセンの文章と物語の持つ魅力が映像へと完璧に再現されているので、ぜひ観たほうがいい映画のひとつ。堅苦しくないし、観たあと、優しい気持ちになれるよ。


では、また