読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いつかの私というフィクション

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

恵みの夜

墓地の塀を見上げると、牡丹桜の梢が塀を乗り越えて道まではみでている。
初夏には瑞々しく艶のあった緑の葉も夏の喧騒を過ぎた今では埃や排気ガスで薄汚れて、虫の食べた小さな穴が所々に開いている。けれど、夜、外灯に上から照らされて透ける葉脈たちは相変わらず綺麗だ。
陸橋近くの塀には蔓草が絡みついているのだけれど、たしか6月あたりに1度塀の半分を覆っていたのをすべて取り払われてしまった。それでも雑草は強いもので、2ヶ月しか経っていないのにはやくも塀の隅を埋めるくらいには伸びはじめて、山羊の足のような三ツ又に分かれた葉を少ないながらも揺らしていた。蔓草の葉が揺れて擦れあう音は聞いていてなんでこんなに気持ちいいんだろうかと考えて、そうか、風を感じるからだ、と思った。風がいまそこにいることを感じさせてくれる音。どおりで涼しさを感じるわけだ。
塀に小便をして黒い染みをつくった飼い犬が、今度は細い脚をプルプルさせながら踏んばってうんこをしているところに出くわした。墓地の塀にそんなことして罰当たりな、金玉が腫れても知らないぞ、と思ったけれど、それは稲荷神社だったっけ?とすこし考える。



空気にすこし秋の気配が混じっている。今夜は月がまんまるらしい。冷房ずっとつけっぱなしだったのに電気代が2000円台だった。去年とかはたまにつけたりして7000円くらいだったのに。エアコンはつけっぱなしがいいというのは本当だった。すこし嬉しかった。



ボルヘスを久しぶりに読んでいる。「砂の本」。ボルヘスの知識量は尋常ではなく、特に神学においては知らないことはないんじゃないかというほど、知識から知識へと横断する際のその距離が遠すぎて、ただついていくのでも苦労する。むしろついていけてないことのほうが多い。その特性は小説よりもエッセイのほうがすごいのだけれど。
砂の本に収録されている短編のなかでは、やはり「他者」と「疲れた男のユートピア」が好きだ。こうして並べてみると、前者は過去と、後者は未来と現在がなにかの手違いで接続されてしまう話だ。あと意外と「人智の思い及ばぬところ」もいい。
解説しようかと思ったけど、めんどくさいからまたの機会にでも。





NHKでやっていた新海誠川上未映子の対談で、川上未映子が、

「いつかじぶんは死ぬんですよ!それってすごくないですか?ここにいるみんな、いつかは絶対に死ぬ。なのにみんなこのすごさをわかってくれない。たぶんテレビの前のひとも、はあ?あたりまえじゃんって思ってるんでしょうけど」

と言っていて、じぶんと同じようなことを真剣に考えて抱えて生きている人間がたしかにいるんだなあ、よかったあと思ったら、涙がでてきた。「君の名は。」はとりあえず観たい。しかしいったいこの人気はどういうことなんだ?言の葉の庭のときなんか全然注目されてなかったのに。しかも聞けば観にくる客層のほとんどがカップルらしいじゃないか。おかしい。新海誠の映画は童貞心をくすぐられる映画(誉めてます)のはずなのに。すべての作品に一応目を通していて、いくつかのものには好感を持っている人間としては、果たして新海誠は変わってしまったのか是非映画館で確かめてみなければいけない。



では、また。