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いつかの私というフィクション

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

複製された男VS複製されたい男

 

 

年が明けて早々、友人の家でちょっとした映画鑑賞会を開いた。開いたといっても成り行きでそうなったというか、「映画が観たい」と僕が言い出し、早速その日のうちにゲオで借りた映画をふたつ観た。

 年が明けて間もない日からホラー映画を観るのもどうなのかと思ったりもしたけれど、誰かと一緒じゃないとホラー映画は怖くて観られない人間なので、こういう機会がないと観られない映画を選ぶとなるとやはり僕としてはホラー映画一択になるのだった。

ひとつめはホラー映画(名前は忘れた)で、ふたつめは「インターステラー」だった。こちらは友人が前々から観たいと言っていたものだったので僕は何度も観ていたけど何度観ても面白いからそれになった。やはり面白かった。

それで先々々週の土曜日、この即席映画鑑賞会を気に入った友人のひとりが「この会を定期的にやろう」と提案したのがきっかけで、その日に第2回目が開かれることとなった。

 

 

 

 

第2回目(?)に選んだ映画が「複製された男」。ノーベル賞作家であるジョゼ・サラマーゴの原作、複製された男を映像化したもの。

ある日、知人の薦めで観た映画の端役に自分とそっくりな男がいるのを発見して、その男と会うためにさまざまな手を尽くし対面を果たすのだが、そのせいで主人公は思わぬ事態に巻き込まれる。

というようなあらすじに興味を持った僕らは借りたのだけれど、はじまって数分で、

「あ、これみんなで観るような映画じゃないわ…」ということに気がついた。

たぶんあそこにいた誰もが「思ってたのと違う…」と感じていたはずだ。誰かがそう口にしたわけではないけれど、あの空気感がすべてを物語っていた。実際僕はそう思っていた。たとえばトータルリコールとかブレードランナーのような『なにも考えずフランクに観れるような映画』だと勝手に誤解していたのだ。「複製された男」はそれらとはまた違うタイプのものだった。

まず、訳がわからなかった。物語らしい物語はあるものの一見無意味な映像がいくつも挿入されていて、進むにつれて物語は破綻を起こしつつ、最後までこの映画に隠されたいくつもの謎がちゃんと明らかにされることはなかった。

観終わったあと、それぞれの意見を出しあって一応それなりの解釈をしてなんとなく話は終わったけれど、やはりどこか消化不良というか、もっとちゃんとした考察をしてみるべきだと個人的に思ったので、ここにいくつかの謎に対する自分なりの答えを書いてみることにした。

ただ、この映画は観ていない人に説明するのはものすごく難しいので、ここに書く考察も「複製された男」を観た人でないと分からないという前提で話を進めていこうと思う。

まあ、友人以外がこのブログを見ているとは思えないけれど、念のため。

 

 

 

 

 まずは順を追って説明していく。

最初に蜘蛛の謎。冒頭と中盤とラストに出てくるこの蜘蛛が一体なんなのか。これがわからないとこの映画の意図するものがまったくわからない。これはネットで調べるとすぐにでてくる、 心理学でいうところの「縛りつける女性」、「束縛する母親」という意味のメタファーで間違いないだろう。

次に、なぜ同じ人間がふたりいるのかという謎。たぶん多くのひとがここで頭を悩まし、答えがわからずに考えるのをやめてしまうはずだ。主人公であるアダムとアンソニーはいったいどんな理由であそこまで似ているのか、同一人物なのか、はたまた奇跡レベルの他人の空似なのか、どちらかがクローンなのか、それとも生き別れの双子…?映画を観ているあいだ誰もがずっと気になり、自分なりの解答を用意していたのに最後の最後まで明確な答えがなくて肩透かしを食らったこの謎。

 

僕の出した結論は、そんなことは考えるだけ無駄。

 

 というか、この「複製された男」はそもそもそんなことを観客に考えさせるために作られてはいない。なんでこのふたりがまったく同じなのか。それは同じだからしょうがない。それだけ。ハイ終了。このアダムとアンソニーは「同一人物でもあり、同時にまったく違う存在」くらいに認識できていれば充分なのだ。

暴論に聞こえるかもしれないけれど、この「複製された男」は「なぜ同じ男がふたりいるのか?」ということに焦点を当てていないし、その謎を解明することがこの映画を楽しむことではないからだ。「なぜ同じ男がふたりいるのか」は監督自身もよく分かっていないと思う。

たぶん夢を見ているときと似たような感覚でこのふたりは存在しているのだろう。夢を見ているあいだは、どんな不思議な出来事や現象が起きてもなんの疑問を持たずにすんなりと受け入れてしまう。目が覚めてようやく「変な夢だったな…」と違和感を感じることはできても、夢のなかでは不可解な行動や思考も当たり前のものとして受け入れてしまう。なぜそうなったのかはわからない、でもそれはそうなってしまったのだから仕方がない。理由が分からなくても受け入れるしかないのだ。

それは冒頭にでてくる「カオスとは、未解読の秩序である」という言葉からもわかる。このふたりが同じ人物なのか、それともまったく違う存在なのか、それは未解読の秩序であり、そもそもこの映画自体が因果関係や時間軸の狂った混沌とした世界として出来上がっている。アダムとアンソニーはときに混じり合い、ときに反発しあう。同じ人物のときもあれば、まったく違う存在のときもある。なぜそんなことになるのか?それは今朝見た夢の意味がわからないのと同じように分からないことなのだ。そうなるからそうなった。僕らに分かるのはそのことだけだ。

 

 このふたつを踏まえたうえでこの映画を観ていくと視界がだいぶクリア(?)になる。

冒頭の蜘蛛を潰すシーンは、縛りつける女性からの解放を意味する。つまり妊娠している妻からの逃避。

アダムがアンソニーに会いに行くときホテルの廊下ですれ違った蜘蛛頭の女は、アダムがいずれ束縛する母親に囚われるという兆しというかサインみたいなものだろう。

そして最後のアンソニーの妻が巨大な蜘蛛になるところ、あれは見たまんま、アンソニーの妻=束縛する母親ということ。

アダムはエレベーターで乗り合わせた男の言っていた地下の部屋の鍵を見つけ、ついでに指輪を見つける。そしてアンソニーの妻に「今日はでかけるよ」と告げる。するとどうだろう、あら不思議。話は冒頭のシーンに戻るのだ。

この映画を観終わったあとでは、あのシーンはアダムともアンソニーとも取れてしまう。あの男を引き連れてるのも、アンソニーの場合ならエレベーターで言っていた「連れて行ってくれてありがとうごさいます」という言葉どおりだろうし、アダムの場合は場所がわからないから道案内も兼ねて彼を誘ったということで説明がつく。あのシーンはアンソニーでもあり、アダムでもあるのだ。指輪をはめているのも、アンソニーはもちろんのこと、アダムは鍵といっしょに指輪を見つけなぜかはめている。

つまりこの映画は終わると同時にまた始めに戻るという仕掛けになっている。はじめて観たとき冒頭の人物はアンソニーだったはずが、もう一度観てみるとこれはどちらなのかわからなくなるようになっている。

ラストと冒頭が繋がっていることによって、僕らは最初に観たときと同じ感覚で「複製された男」を観ることはできず、記憶のなかの映画を ひきずりながら、一見無意味に思えたり一面的だった映像や台詞が、最初に観たときとは違う意味や側面を持っていることに気づく。

たとえば、 アダムが恋人と情事をするところ。「この映画を観終わった後」では、あれはアンソニーともとれてしまう。妻が「あの女でしょ」となじる場面はここと繋がる。他にも、アダムにアンソニーの妻が「学校は、どう?」と聞く場面も、一見すると妻が彼の正体に気がついたという解釈もできるし、ただ単にアンソニーに対して質問したようにも見えるのだ。(アンソニーの職業は明らかにされていないから)

 アダムとアンソニーは蜘蛛を潰す儀式のようなものを見ることで束縛する母親から一旦は解放され恋人との情事を楽しむ。けれど結局は妊娠している妻に捕らえられてしまい、恋人は主人公の対極にいるアンソニーとともに事故によって失われる。(もしかしたら脇腹にあった傷はそのときにできたものだろうか?)これで終わりかと思いきや、アダム(アンソニー)は地下の鍵と指輪を手に入れ、また束縛する母親から逃れようとふたたび地下の部屋へ行ってしまう。こうしてアダムとアンソニーは永遠にこの行為を繰り返す。このことをアダム自らマルクスの言葉を引用してこう表現している。「1度目は悲劇で、2度目は茶番劇だ」と。(このあたりの場面でひたすら「繰り返す」ことを暗に強調している)

 今自分の書いてきた文章をあらためて読んでみて、まとめるつもりがさらにこんがらがせただけではないかという気がするのだけれど、まあ、「カオスとは未解読の秩序」なのだから仕方ない。アダムとアンソニーの存在の境が曖昧で、なによりもこの映画に隠された法則そのものが、僕らがふだん使っている日常の尺度では測れないのだ。

 

映画にはそれこそいろんなタイプのものがある。この世にある映画の大半は、観客をちゃんと誘導して、その通りになぞっていけばストーリーを楽しめるようにできている。不思議な現象が起きたとしても、そこにはちゃんとした因果関係があり、最後には必ず答えが用意されている。原因があれば必ず結果にたどり着く。なかには曖昧なまま終わるものもあるけれど、それは後味の悪さや余韻を残す「効果」を狙っているのであり、それはいってしまえば「映画の定石」として僕らはすんなりと理解できてしまう。

「複製された男」はそういった映画とはすこし違う。この映画は観客を誘導する気などさらさらない。なにも考えずにこの映画を観ていたらきっとものすごくつまらないものになるだろう。

この映画を楽しむためには、僕らはのめりこまなければいけない。

この場面はいったいなんなのか、どこに繋がるのか、登場人物たちの言葉を聞き漏らさないように耳をそばだて、どのシーンも見逃さないように目をこじあけなければいけない。僕らは自分たちでこの映画に隠された法則を読み解かなければいけないのだ。ふだん僕らの周りにある因果律や常識から一旦離れて、この映画にしかない法則に自分の身体を馴れさせ、その仕掛けに過敏に反応していかなくてはいけない。

 現実からの逸脱。それは大半の映画とはまた違った楽しさを僕らに提供してくれる。

 僕は常日頃、映画を観るという行為は運動と同じものだと思っている。同じ「走る」でも、短距離ランナーと長距離ランナーの筋肉のつき方や鍛え方が違うように、同じ「映画」でも、観るポイントやコツによって、すごく楽しめたり、反対にすごくつまらないものになってしまったりする。

あらゆる映画を楽しむためには、こちらから能動的に映画へ没頭しなければいけないと、最近はよくそう思う。まるで初めて映画を観るときのような、その映画で映画というものを知るという感覚で観る、この映画のことを知りたい!という気持ちで観る。そうすれば自ずと映画を楽しめるのではないだろうか。

 

 

とはいっても、どうしたってすごくつまらない映画というものはやはり存在するから、厄介だなんだよなあ…

 

 

 

先週も映画鑑賞会をやって、そしてまた明日、友人のオススメ映画を観ることになっている。こうやってしばらくは、希望としてはずっと、こんなふうにみんなでワイワイ映画を観ていきたいなあと思ったりしている。

 

 

 

では、また。