ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

夜風にまじる記憶

 

 

 

 

年を取れば日々の変化に鈍感になると思っていた。

 

若い頃、といっても現代の寿命から考えれば若い年代に属するけれど、「まだ若いから」という理由で失敗や挫折が許されなくなった年齢になった今、若かったころの自分が「年を重ねていくたび、いつかこういう風にものごとを捉えていくのかもしれない」と漠然と想像していたようには、少なくとも今の自分はそう感じていたり考えたりはしていない。

 

 

最近のこと。会社から家へ帰る途中、車の窓を開けて運転しているときだった。速度を上げていけばいくほど吹きこむ夜風が熱のこもった車内を爽やかな空気に変えていた。残業で遅くなったせいか道は空いていて信号にもそれほど引っかからなかった。HHDには新しい音楽をしばらく入れておらず、数年前によく聴いていたアルバムをかけていた。

肌を撫でる夜風にまじった新緑の匂いを嗅いで音楽に耳を傾けていると、なんだか急に切なくなった。なんで切なくなったのか意味が分からず、理由を自分自身のなかに探してみてもこれといった明確なものは見つからなかった。

行き場のない切なさだけが肥大して、家に着いてからも突然湧きでた感情を持て余していた。

 

悲しみのはしっこはいつも   忘れられてほっとかれる

いつのまにか何事も  なかったような空気だ

夜明けのホラーが好きさ  救われたような気がして

その後みる夢がどんな  ひどいものだったとしても

 

The Birthday 「ROKA」

 

 

たぶん、これはなんとなくでしかないけれど、切なさの根幹にある記憶を僕は忘れてしまっているのではないだろうか。それを身体だけが皮膚感覚でおぼえていて、頭ではわかっていなくても身体がその記憶を呼び覚まし、思い出していたのかもしれない。それか、これまで生きてきた時間のなかで蓄積された感情なり思考の総体が、季節の変化をきっかけとして形を成さないまま蘇ってきたのかもしれない。

どちらにしろ、過去が苔のように身体に定着し、日々の悲しみや喜びが記憶から忘れ去られるには、長い時間が必要なのは確かだ。

 

 

ある年齢を境に、雨や台風が近づいてくると頭が痛くなるようになったし、寒さや暑さにも体調が大きく左右されるようになった。身体が劣化すると周りの変化に敏感になるというある種の矛盾を抱えたまま、僕の身体はもう、過去を頼りにして生きようとしているような感じがする。過去を拠りどころにして、今日を生きる。それはただの勘違いなのかもしれない。けれど、未来への希望だけを胸に抱えて生きていたあのころとは、どこか違う。

 

 

 

彼女と海へ行った。

本当はハンバーガーを食べに行ったのだけれど、店はもう閉まっていた。それが分かったのは駐車料金を払った後だったので、どうせならとそばにある海にすこしだけ立ち寄った。

波打ち際に近づいてみると、堤防に当たる波が「ぷかぷか」という音を立てて弾んでいた。

それまで「ぷかぷか」という単語は小説のなかでしか目にしたことがなかった。たとえば、『船がぷかぷか浮いている。』という文章を読んだときイメージするのは、船が水面で揺れながら浮いている様子だけで、そこに音が付随することはなかった。「ぷかぷか」は擬態語だと思っていた。それが実は擬音語だったことを知り、僕は興奮して、

「波がぷかぷかいってるんだけど!」

と叫ぶと、彼女は笑って

「今さら知ったの?」と、からかうように言った。

約2年間、海に囲まれた環境で暮らしていたのに、「ぷかぷか」なんて音は耳にしなかった。あそこの波はいつでも強かったし、夜空一面に広がる星や海の向こう側で騒がしく明滅するネオンに気を取られていたせいかもしれない。

日が沈もうとしているなか、底の小石が見えるほど透き通ったさざ波のたてるぷかぷかを耳にしながら、初めてその音を体験し、実感した喜びと興奮にひとり昂ぶっていた。もちろんアインシュタインやキューリー夫人が成した大発見ほどではないにしても、個人的な常識を変える出来事に出会えた素朴な幸福感で満たされていた。死ぬまでそういう体験ができそうな予感に打ち震えていた。

しばらく海を眺めてからご飯を食べに他の店へ向かった。

 

 

 

 

 

 

「もし徴兵制がはじまったらどうする?」

「行くよ」

「自分の息子が行くってなったら?」

「行かせるよ」

「戦争に行くかもしれないんだよ?」

「まあ、しょうがないんじゃない?」