ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

アンナの結婚生活

 

 

 

 

9月になった。日中は相変わらず暑いけど、日が沈みはじめると重くよどんでいる湿気もなくなって、さらりとした静かな風が吹いている。夜の闇のなかにゆっくり染み込んでいくような、音もなく草の葉を揺らす風。

 

 

彼女が妻になって4カ月が経った。ふたりで生活していくなかでトルストイの小説を思い出す。

 

 

彼も独身だったころには、よく他人の結婚生活をながめながら、そのくだらない心配やら、いさかいやら、嫉妬やらを見ると、内心そっとさげすみの笑いを浮かべ、自分の未来の結婚生活には、そうしたことはいっさいありえないばかりか、その外面的な形式までが、あらゆる点において、他人の生活とはまったく違っていなければならないと確信していた。ところが、いざとなると、その期待に反して、彼と妻との生活は特別な形式をとらなかったばかりか、かえって以前あれほど軽蔑していた、取るに足らない、くだらないことで成り立ってしまったのである。

 

アンナ・カレーニナ

 

 

 

 

 

トルストイの小説に出てくる登場人物たちはみんな「普通」だ。社会規範にある程度溶け込めてはいるけど心や思想の一部分が相容れず、それが彼や彼女を悩ませ、ときに苦しめている。同じ時代に書いていていたドフトエフスキーの登場人物たちはぶっとびすぎて傍目で見ている分には興味深いけどお近づきにはなりたくない。ドストエフスキーはあまり読んだことないのでわからないけど、トルストイは感情や思考の持つ流動的なダイナミックさを明快で整然とした文体で捉えているところが好きだ。

 

 

 

 

「友達の奥さんが出てったんだよ」

と、美容師のお兄さんが僕の髪を切りながら言った。聞けば、お兄さんの友達は家がホテルのように清潔で綺麗じゃないと気が済まないらしく、会社から帰ってくると散らかった部屋を掃除をするのが日課だったのが、日を追うごとにその量が増えていくのがある時不満になって奥さんと喧嘩をし、「だったら私がいないほうが綺麗になるんじゃない?」と置き手紙を残して実家へ帰っていったという。

「4ヶ月の赤ちゃんがいるんだからしょうがないじゃんねえ」と、奥さんとも仲のいいお兄さんは奥さんを擁護した。「そうですよねえ」と僕も名前も顔も知らない奥さんに同情した。

このお兄さんは僕と同じ中学の出身で、しかも僕らが高校のころよく行っていたカラオケ店でアルバイトをしていた人で、それだけで勝手な親近感を僕は抱き、それ以来お兄さんを指名して髪を切ってもらっている。カラオケ店はもうだいぶ前に潰れてしまった。

「自分で綺麗にするのはいいと思うけど、片付けを毎回不満そうにやってたらしくて、それもダメだよねえ」

お兄さんは櫛で揃えた髪をつまんで毛先をハサミでシャキシャキ切っていく。

 

 

 

 

幸福な家庭はすべて似通ったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。

 

 

アンナ・カレーニナ

 

 

 

 

アンナ・カレーニナの有名な冒頭であるこの文章は17回書き直されたらしいけど、この数は少ないほうなんじゃないかと僕は思う。

この書き方ではまるで結婚における幸福は1つしかないように思われて、あらゆる分野で多様性を認めようとする現代に生きる僕らからしたら、多少の反発を感じないわけではない。(一方で画一化を図ろうとする人たちもいるわけだけども)不幸の数だけ幸福の形があってもいいんじゃないか。そもそも幸福とはなんだろう?結婚における幸福とは?

新婚生活は人並みに順調な僕にとって、これから先、結婚生活が不幸になる要素はあるんだろうかと、すこし不安に思うときがないわけではない。