ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

ペルディードの時間【小説】

家だと思ったら公園だった。

「ねえ、まだ着かないの?」

ずっといじっているスマホから顔を上げて、助手席に座る娘がトゲのある声で訊ねた。

彼は曖昧な笑顔でごまかして「たしかこのへんだったはず…」とひとりごとのようにつぶやいた。

せまいこの道を曲がった先には、公園ではなく友人の家があるはずだった。うちに来いよ。14年ぶりに電話で話した友人はそう言った。俺の家わかるだろ?昔と変わってないからさ、暇なら来いよ。そうだ、おまえのこどもも今年で17だろ?俺の娘とよく遊んでたよな。どうせなら家族みんな連れてこいよ。晩飯はうちで出前とかとって豪華にやってやるから。

オレンジがかった西陽が照らすなかを、彼と娘の乗る白い車は、自転車が数台とまっているだけの誰もいない公園の前を通過し、次第にスピードをあげていった。二車線の広い道にでると、両側には民家やコンビニが点在するだけで、あとは赤土の畑とビニールハウスが交互に並んでいた。

「ここ、さっきも通った」と娘がそっけなく言った。

「そうか?」

「この景色、さっきも見た」

「このへんは同じような景色しかないから、勘違いじゃないか?」娘の言うとおりだったが、道に迷っていることを悟られたくない彼はなんとかごまかそうとした。

「同じ道だよ。わたし、記憶力いいから」娘はまっすぐ前を見つめながら言った。

西陽のまぶしさに目を細めながら、彼は流れていく景色を眺めた。彼は昔、この道を何度も通っていたし、この町のこともよく知っているつもりだった。ところがいざ十数年ぶりに来てみると、あるべきものがなかったり、ないはずのものがあったりと、そういう光景に出くわすたびに、最初に抱いていたこの町への懐かしさや親しみがどんどん薄れていくのを感じた。

「エリはもう覚えてないだろうなあ」彼はまたスマホをいじっている娘に話しかけた。

「今から行く家に、エリと同い年の女の子がいるんだけど、昔エリが3歳のときによく一緒に遊んでた子なんだよ。ふたりでいつもボールの取り合いっこしてたよなあ。人形とかじゃなくて、このくらいの」と、彼は左手の親指と人差し指の先をくっつけて円をつくった。「小さな、なかにスパンコールみたいなのが入ってて、弾ませたりするとなかでキラキラ光って揺れるのがふたりとも気に入ったんだろうな。ふたりとも自分のだって譲らなくて。あるときエリがそのボールを口のなかにいれちゃってさ。それを見たお母さんがすごい剣幕で『だしなさい!』って怒ったら、びっくりしたのかまんまるな目をして…」

「覚えてるよ。のみこんじゃったんでしょ」娘はスマホを見ながら言った。「そのあと、わたしが大泣きして、大人が4人がかりでわたしからボールを吐き出させたことも、マイちゃんがそのボールをわたしにくれたことも」と、娘はおもむろに窓の外に目を向けた。「お母さんが帰りの車のなかで、驚かせちゃってごめんね。エリはのみこむつもりなんてなかったのにね。でも、もうあんなことしないでねって謝ってくれたことも、あの日のことはけっこう覚えてる。でも、お父さんのことはあんまり記憶にないんだよね」彼は娘のほうをちらっと目をやったが、窓に反射するぼんやりしとした顔しか見えなかった。

「たぶんお父さんは、今のお父さんのイメージが強いから。更新されていくからなんだろうね。今もずっと一緒にいるからお父さんとの過去はどんどん過去になっていくけど、ほかの人たちは更新されていかないから、ずっと昔に過ごしたときの記憶を今もちゃんと思い出せるんだろうね」と、娘は彼をじっと睨んだ。「ていうか、そろそろお腹すいたんだけど」

「もうそろそろだから」

「カーナビ使えばいいじゃん」

「住所知らないんだよ」

「サイテー」

日はもうだいぶ傾き、遠い山並みの輪郭を赤くなぞりながらその背後へ沈もうとしていた。夜を匂わす東の空に向かって、カラスがゆっくりと飛んでいくなか、地上では外灯やヘッドライトの明かりが目立ちはじめていた。彼は見慣れた道へ差しかかり、徐行しながらハンドルを右にきった。そうだ。こっちへ曲がってあの建物の角を左に曲がってまたすぐに右折すれば、目の前がアイツの家だ。彼は記憶と今の景色を重ねあわせながら道を進んでいった。車は住宅街のせまい道に入り、赤いレンガ造りの家の前で左折し、またすぐに右折すると、路肩へ寄った車はゆっくりとまった。

彼の思っていたところには家はなく、あるのは公園だった。

「ごめん。お父さん迷ったみたいだ。絶対ここだと思ったんだけど、とりあえずおじさんに電話してみるよ」

「ううん。ここだよ」娘は公園を見ていた。

「え?」

「さっき思い出した。マイちゃんの家、たしかにここにあった」彼のほうを向いた娘の顔は、夜の闇に溶け込んでいくように青白くなり、唇はすこし震えていた。「ねえ、お父さん、わたしたちこれからどこに行こうとしてるの?」

彼は娘を抱き寄せて、友人に電話をかけた。呼び出し音が鳴りひびくなか、娘の手にある小さなボールが、窓から射しこむ外灯の明かりでキラキラと光っていた。