ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

覚え書。

 

 

 

 

 

メモ。

 

 

いつかの幸福が現在を苦しめるなんてこと知っていたらきっともっと楽なほうを選んでた。なくなる幸福なんていらなかった。幻想に生きてずっと憧れを抱いたまま死んでいけばよかった。死んでいきたかった。もっとちゃんと嘘をついてほしかった。と友人が言う。巨きな栗の樹の下で。手をつなぐふり。キスをせがむふり。大好きなふり。誰も真実になんて興味ない。誰かではなく、あなたの最愛のひとになりたかった。「あゝ、お前はいったいなにをしてきたのだ」と、吹き来る風が私に言う。汚れちまった悲しみに。ゆやーんゆよーん。錆びたブランコが揺れる音。西陽の差し込む時刻にいつも死にたくなるのはなぜ?未来とは希望のことだ。希望とはなにかを愛することだ。なにかを愛することは、なにかを愛せることは幸福だ。幸せになりたかった。ただ幸せになりたいだけだった。あなたとわたし。巨きな栗の樹の下で。と、友人が言う。あの日僕は小さなサインを見逃し続けた。夢も希望も消え失せた。うたかたの日々。虎になって月に吠える。青い車に乗って荒野を行く。ありきたりな景色が待っているとしても。迎えてくれるひとがそこにいなくても。あの街がまるごと幻だったとしても。いつかあのときは悲惨だったと笑いあえるように。と友人が言う。たまには未来の話をしよう。タイムマシンに酔って。明るい未来の話。まだ誰のものでもない僕らだけの未来。未来とは希望のことだ。たとえそれが人生のつく嘘や勘違いだったとしても。あるだけマシさ。明けない夜があることを願って。バイバイ。さよなら。またね。

 

 

 

 

 

 

 

「たとえば、そうだな、君は数年前の自分が今の自分とまったく同じ人間だと思うかい?そういうこと考えたことある?ないなら考えてみて。あるならそのとき出した答えを教えてほしい。ぼく?ぼくはどう思うかって?それがわからないから君に聞いてるんだ。細胞はある一定の周期で完全に入れ替わるというけど、最近の科学で細胞のひとつひとつにそれまでの記憶がインプットされていることがわかったらしいし、かといってじゃあ記憶がその人をその人たらしめている決定的な要因かと言われれば疑問だし、たとえば外見は年を取れば当然変わっていくよね。皺が増えたり、頬がたるんだり、ハゲたり、痩せたり逆に太ったり。でもそれは身体の変化であって、自分が自分でなくなったことにはならないような気がするんだ。ただね、時間の連続性ってやつのせいで僕らは生まれてから死ぬまでずっと存在している気になっているけど、本当は僕らは過去の僕らを絶えず殺しながら存在しているんじゃないかってときどき思うんだ。殺すなんて物騒な言葉を使っちゃったけど、どちらかといえば書き換えるって感じかな。更新する、過去の自分に今の自分を上書き保存するって比喩が一番しっくりくるかも。上書き保存だなんて表現いかにも現代人っぽいよね。過去の自分に今の自分をセーブしていく。保存先は変わらないけどデータはその都度減ったり増えたりして。だとしたら数年前の自分はまったく同じ人間だと言えるだろうか?昔のデータを引き継いでいるとはいえ、容量や内容が少しだとしても確実に変わってはいるのに?いや、わかってるよ。これは比喩だ。比喩だからこそこれはぼくが求める答えにはならないし、そもそもデータなんて言葉は曖昧すぎる。それにこの考えにはひとつ問題がある。魂だ。この考えは唯物論的すぎて魂の概念が欠けてる。魂なんて今のご時世に前時代的かもしれないね。人類が創り出した最もロマン溢れるフィクションなのかもしれない。でもこいつは無視できないよ。理性とか感情とかの次元ではなくて、誰かが死んだとき、身体はそこにあるのに、ただ眠っているようにも見えるのに、そこにあったなにかがたしかに失われた感覚というものを、ぼくは無視できないんだ。もし魂があるんだとしたら、魂がぼくをぼくたらしめているのなら。でも、これもひとつの比喩にすぎないのかもしれないね…やっぱりぼくにはわからないよ。それで、君はなにか答えはでた?」

 

 

 

 

 

 

 

 

複製された男VS複製されたい男

 

 

年が明けて早々、友人の家でちょっとした映画鑑賞会を開いた。開いたといっても成り行きでそうなったというか、「映画が観たい」と僕が言い出し、早速その日のうちにゲオで借りた映画をふたつ観た。

 年が明けて間もない日からホラー映画を観るのもどうなのかと思ったりもしたけれど、誰かと一緒じゃないとホラー映画は怖くて観られない人間なので、こういう機会がないと観られない映画を選ぶとなるとやはり僕としてはホラー映画一択になるのだった。

ひとつめはホラー映画(名前は忘れた)で、ふたつめは「インターステラー」だった。こちらは友人が前々から観たいと言っていたものだったので僕は何度も観ていたけど何度観ても面白いからそれになった。やはり面白かった。

それで先々々週の土曜日、この即席映画鑑賞会を気に入った友人のひとりが「この会を定期的にやろう」と提案したのがきっかけで、その日に第2回目が開かれることとなった。

 

 

 

 

第2回目(?)に選んだ映画が「複製された男」。ノーベル賞作家であるジョゼ・サラマーゴの原作、複製された男を映像化したもの。

ある日、知人の薦めで観た映画の端役に自分とそっくりな男がいるのを発見して、その男と会うためにさまざまな手を尽くし対面を果たすのだが、そのせいで主人公は思わぬ事態に巻き込まれる。

というようなあらすじに興味を持った僕らは借りたのだけれど、はじまって数分で、

「あ、これみんなで観るような映画じゃないわ…」ということに気がついた。

たぶんあそこにいた誰もが「思ってたのと違う…」と感じていたはずだ。誰かがそう口にしたわけではないけれど、あの空気感がすべてを物語っていた。実際僕はそう思っていた。たとえばトータルリコールとかブレードランナーのような『なにも考えずフランクに観れるような映画』だと勝手に誤解していたのだ。「複製された男」はそれらとはまた違うタイプのものだった。

まず、訳がわからなかった。物語らしい物語はあるものの一見無意味な映像がいくつも挿入されていて、進むにつれて物語は破綻を起こしつつ、最後までこの映画に隠されたいくつもの謎がちゃんと明らかにされることはなかった。

観終わったあと、それぞれの意見を出しあって一応それなりの解釈をしてなんとなく話は終わったけれど、やはりどこか消化不良というか、もっとちゃんとした考察をしてみるべきだと個人的に思ったので、ここにいくつかの謎に対する自分なりの答えを書いてみることにした。

ただ、この映画は観ていない人に説明するのはものすごく難しいので、ここに書く考察も「複製された男」を観た人でないと分からないという前提で話を進めていこうと思う。

まあ、友人以外がこのブログを見ているとは思えないけれど、念のため。

 

 

 

 

 まずは順を追って説明していく。

最初に蜘蛛の謎。冒頭と中盤とラストに出てくるこの蜘蛛が一体なんなのか。これがわからないとこの映画の意図するものがまったくわからない。これはネットで調べるとすぐにでてくる、 心理学でいうところの「縛りつける女性」、「束縛する母親」という意味のメタファーで間違いないだろう。

次に、なぜ同じ人間がふたりいるのかという謎。たぶん多くのひとがここで頭を悩まし、答えがわからずに考えるのをやめてしまうはずだ。主人公であるアダムとアンソニーはいったいどんな理由であそこまで似ているのか、同一人物なのか、はたまた奇跡レベルの他人の空似なのか、どちらかがクローンなのか、それとも生き別れの双子…?映画を観ているあいだ誰もがずっと気になり、自分なりの解答を用意していたのに最後の最後まで明確な答えがなくて肩透かしを食らったこの謎。

 

僕の出した結論は、そんなことは考えるだけ無駄。

 

 というか、この「複製された男」はそもそもそんなことを観客に考えさせるために作られてはいない。なんでこのふたりがまったく同じなのか。それは同じだからしょうがない。それだけ。ハイ終了。このアダムとアンソニーは「同一人物でもあり、同時にまったく違う存在」くらいに認識できていれば充分なのだ。

暴論に聞こえるかもしれないけれど、この「複製された男」は「なぜ同じ男がふたりいるのか?」ということに焦点を当てていないし、その謎を解明することがこの映画を楽しむことではないからだ。「なぜ同じ男がふたりいるのか」は監督自身もよく分かっていないと思う。

たぶん夢を見ているときと似たような感覚でこのふたりは存在しているのだろう。夢を見ているあいだは、どんな不思議な出来事や現象が起きてもなんの疑問を持たずにすんなりと受け入れてしまう。目が覚めてようやく「変な夢だったな…」と違和感を感じることはできても、夢のなかでは不可解な行動や思考も当たり前のものとして受け入れてしまう。なぜそうなったのかはわからない、でもそれはそうなってしまったのだから仕方がない。理由が分からなくても受け入れるしかないのだ。

それは冒頭にでてくる「カオスとは、未解読の秩序である」という言葉からもわかる。このふたりが同じ人物なのか、それともまったく違う存在なのか、それは未解読の秩序であり、そもそもこの映画自体が因果関係や時間軸の狂った混沌とした世界として出来上がっている。アダムとアンソニーはときに混じり合い、ときに反発しあう。同じ人物のときもあれば、まったく違う存在のときもある。なぜそんなことになるのか?それは今朝見た夢の意味がわからないのと同じように分からないことなのだ。そうなるからそうなった。僕らに分かるのはそのことだけだ。

 

 このふたつを踏まえたうえでこの映画を観ていくと視界がだいぶクリア(?)になる。

冒頭の蜘蛛を潰すシーンは、縛りつける女性からの解放を意味する。つまり妊娠している妻からの逃避。

アダムがアンソニーに会いに行くときホテルの廊下ですれ違った蜘蛛頭の女は、アダムがいずれ束縛する母親に囚われるという兆しというかサインみたいなものだろう。

そして最後のアンソニーの妻が巨大な蜘蛛になるところ、あれは見たまんま、アンソニーの妻=束縛する母親ということ。

アダムはエレベーターで乗り合わせた男の言っていた地下の部屋の鍵を見つけ、ついでに指輪を見つける。そしてアンソニーの妻に「今日はでかけるよ」と告げる。するとどうだろう、あら不思議。話は冒頭のシーンに戻るのだ。

この映画を観終わったあとでは、あのシーンはアダムともアンソニーとも取れてしまう。あの男を引き連れてるのも、アンソニーの場合ならエレベーターで言っていた「連れて行ってくれてありがとうごさいます」という言葉どおりだろうし、アダムの場合は場所がわからないから道案内も兼ねて彼を誘ったということで説明がつく。あのシーンはアンソニーでもあり、アダムでもあるのだ。指輪をはめているのも、アンソニーはもちろんのこと、アダムは鍵といっしょに指輪を見つけなぜかはめている。

つまりこの映画は終わると同時にまた始めに戻るという仕掛けになっている。はじめて観たとき冒頭の人物はアンソニーだったはずが、もう一度観てみるとこれはどちらなのかわからなくなるようになっている。

ラストと冒頭が繋がっていることによって、僕らは最初に観たときと同じ感覚で「複製された男」を観ることはできず、記憶のなかの映画を ひきずりながら、一見無意味に思えたり一面的だった映像や台詞が、最初に観たときとは違う意味や側面を持っていることに気づく。

たとえば、 アダムが恋人と情事をするところ。「この映画を観終わった後」では、あれはアンソニーともとれてしまう。妻が「あの女でしょ」となじる場面はここと繋がる。他にも、アダムにアンソニーの妻が「学校は、どう?」と聞く場面も、一見すると妻が彼の正体に気がついたという解釈もできるし、ただ単にアンソニーに対して質問したようにも見えるのだ。(アンソニーの職業は明らかにされていないから)

 アダムとアンソニーは蜘蛛を潰す儀式のようなものを見ることで束縛する母親から一旦は解放され恋人との情事を楽しむ。けれど結局は妊娠している妻に捕らえられてしまい、恋人は主人公の対極にいるアンソニーとともに事故によって失われる。(もしかしたら脇腹にあった傷はそのときにできたものだろうか?)これで終わりかと思いきや、アダム(アンソニー)は地下の鍵と指輪を手に入れ、また束縛する母親から逃れようとふたたび地下の部屋へ行ってしまう。こうしてアダムとアンソニーは永遠にこの行為を繰り返す。このことをアダム自らマルクスの言葉を引用してこう表現している。「1度目は悲劇で、2度目は茶番劇だ」と。(このあたりの場面でひたすら「繰り返す」ことを暗に強調している)

 今自分の書いてきた文章をあらためて読んでみて、まとめるつもりがさらにこんがらがせただけではないかという気がするのだけれど、まあ、「カオスとは未解読の秩序」なのだから仕方ない。アダムとアンソニーの存在の境が曖昧で、なによりもこの映画に隠された法則そのものが、僕らがふだん使っている日常の尺度では測れないのだ。

 

映画にはそれこそいろんなタイプのものがある。この世にある映画の大半は、観客をちゃんと誘導して、その通りになぞっていけばストーリーを楽しめるようにできている。不思議な現象が起きたとしても、そこにはちゃんとした因果関係があり、最後には必ず答えが用意されている。原因があれば必ず結果にたどり着く。なかには曖昧なまま終わるものもあるけれど、それは後味の悪さや余韻を残す「効果」を狙っているのであり、それはいってしまえば「映画の定石」として僕らはすんなりと理解できてしまう。

「複製された男」はそういった映画とはすこし違う。この映画は観客を誘導する気などさらさらない。なにも考えずにこの映画を観ていたらきっとものすごくつまらないものになるだろう。

この映画を楽しむためには、僕らはのめりこまなければいけない。

この場面はいったいなんなのか、どこに繋がるのか、登場人物たちの言葉を聞き漏らさないように耳をそばだて、どのシーンも見逃さないように目をこじあけなければいけない。僕らは自分たちでこの映画に隠された法則を読み解かなければいけないのだ。ふだん僕らの周りにある因果律や常識から一旦離れて、この映画にしかない法則に自分の身体を馴れさせ、その仕掛けに過敏に反応していかなくてはいけない。

 現実からの逸脱。それは大半の映画とはまた違った楽しさを僕らに提供してくれる。

 僕は常日頃、映画を観るという行為は運動と同じものだと思っている。同じ「走る」でも、短距離ランナーと長距離ランナーの筋肉のつき方や鍛え方が違うように、同じ「映画」でも、観るポイントやコツによって、すごく楽しめたり、反対にすごくつまらないものになってしまったりする。

あらゆる映画を楽しむためには、こちらから能動的に映画へ没頭しなければいけないと、最近はよくそう思う。まるで初めて映画を観るときのような、その映画で映画というものを知るという感覚で観る、この映画のことを知りたい!という気持ちで観る。そうすれば自ずと映画を楽しめるのではないだろうか。

 

 

とはいっても、どうしたってすごくつまらない映画というものはやはり存在するから、厄介だなんだよなあ…

 

 

 

先週も映画鑑賞会をやって、そしてまた明日、友人のオススメ映画を観ることになっている。こうやってしばらくは、希望としてはずっと、こんなふうにみんなでワイワイ映画を観ていきたいなあと思ったりしている。

 

 

 

では、また。

 

 

 

 

 

 

琥珀色の街、上海蟹の朝

今日、引越会社からダンボールが届いた。
これで荷造りも本格的にはじめていかなければいけない。不動産屋にはもう手続きを済ませてきたし、バイト先には辞める日を伝えてきたから、あとは水道、電気、ガス会社に電話をして、あと転出届とかか。他のことを考えている暇がないほど、やることはいっぱいある。そのほうが今は助かるのだけど。とにかく今ははやくバイトをやめてひとりになりたい。誰にも会わずにすむようにしたい。





ひっさびさにCDを買った。
なにげなく聴いたSuchmosというバンドが気に入ってほとんど衝動的にAmazonで注文した。三枚買った。アナログ人間なのでAmazonでなにかを買うのは初めてで、その便利さには驚いた。頼んだ2日後には近くのコンビニで受け取れるし、値段も店で買うのとほぼ同じ。これなら本や漫画もAmazonで買えばいいじゃないかと思った。これまでは本屋を応援する、応援したいという気持ちもありわざわざ出かけて買いにいっていたけど、ゴーゴリ事件以来、べつにもう本屋なくてもいいや、というすこし投げやりな気持ちになっている。古本屋がなくなるのは困るけど、メジャーな本しか置いていない本屋へわざわざ行く必要性が僕にはなくなってきている。自分の知らない本と出会う場所でもある本屋としての魅力が最近ではまったく感じられないし、買うものが決まっている場合、いくつもの店を探し回って徒労に終わるくらいならネットで注文したほうが絶対いいはずだ。届くまで2日ほど待たなければいけないけど、本屋で取り寄せる場合は最低でも1週間くらいかかることを考えれば、もう、本屋いらなくね?という気持ちになるのもわかってほしい。だから「イムリ」もAmazonで買った。面白い。スターウォーズみたい。





ジェイン・オースティン原作の高慢と偏見をアレンジ(?)した映画「高慢と偏見とゾンビ」が是非とも観たい。

僕はジェイン・オースティンの小説が大好きだ。
ジェイン・オースティンの小説はぜんぶで6つある。その内の5つを読んでしまい、残るは処女作である「ノーサンガー・アビー」のみ。読んでいないのはもうあとひとつしかないと思うとすこし悲しい。べつに再読すればいい話だけど、まったく未知の世界へ入っていける初読の快感はもう得られないのだから、やはり悲しい。だからわざと「ノーサンガー・アビー」だけ読まずに残してあるのだ。そうすれば、まだ読んでいないオースティン作品があるのだという希望がずっと保てられるから。
登場人物たちを愛情深く辛辣に包み込むあの彼女独特のユーモア、平凡な題材にも関わらずページを手繰るのをやめられなくなる軽妙な語り口。なにを語り、なにを語らないか、どこまでを語り、どこまでを語らないか、その微妙なラインを見極めるセンスがオースティンは神かがっている。18世紀に書かれた小説だから、イギリスの貴族階級という現在ではすこし差別的な思想や風習も多少含まれていて(イギリスではいまでも当たり前なのだろうか?)、時々面喰らうところもあるけど、それでもオースティンの小説は健全な精神に満ちていて、そんじょそこらのミステリー小説よりも刺激的な読書体験ができる。まあ、オースティンの小説は恋愛小説なんだけれどね。そんなのは関係ない。
オースティンの小説でどれがいちばん好きかと聞かれたらものすごく困る。(誰も聞いてくれないけど)
たぶん「高慢と偏見」はいちばん人気があるんじゃないだろうか。主人公のエリザベス・ベネットはその欠点も含めて多くの女性が求める完璧な女性像って感じだし、相手のダーシーもツンデレで金持ちでかっこいいし。「マンスフィールド・パーク」は主人公のファニーがおとなしいせいか、小説としても全体的に淡々としていて、(といってもオースティンにしてはという意味で)物語の面白さとしては他の作品と比べると多少見劣りするものの、オースティンの思想がいちばん全面にでている小説でもあり、含蓄のある文章が随所にでてきて違った意味で面白い。「分別と多感」は性格のまったく違う姉妹が主人公で、このふたりのでこぼこっぷりが魅力的だ。個人的に好きなのは妹マリアンが恋人からの手紙を待っているところに玄関のチャイムが鳴り、郵便配達人だと思って駆けつけたところ、いけ好かない人物の来訪だったのでものすごくキレるところと、姉エリナーとジェニングズ夫人との勘違いだろう。ジェニングズ夫人の印象が最初と最後で変わるのもリアリティがあって好きだ。「エマ」はどこかミステリー小説のような趣がある。それにオースティン持ち前の皮肉がいちばん効いているのもこの小説だろう。こんな賢くて愚かな主人公を魅力的に描けるのもオースティンならではという感じ。ナイトリーがイケメンすぎる。「説得」は一番短いのが難点。でも短いからこそ無駄がないし、最初に読んだオースティン作品なので思い入れがある。また読みたくなってきたな……。やはり一番なんて決められるわけがない。みんな違ってみんないい。それに尽きる。



映画「高慢と偏見とゾンビ」は、そんなオースティンの田園恋愛小説「高慢と偏見」にゾンビ要素を取り入れた映画らしく、ジェイン・オースティンファンからも大変好評らしいのでぜひ映画館で観たいと思っている。
今はオースティンとはだいぶかけ離れたメルヴィル「白鯨」を読んでいる。これものっけからすごく混沌としていて面白い。当分はこれでどうにか生きていけそうだ。



では、また。

「外套」や「鼻」を書いたロシアの小説家といえば誰?

また台風が来るらしい。
前回の台風のときはバイト終わりがちょうど雨が激しく降っている時間帯で、傘をさしていたにも関わらず腕や靴やスボンの裾なんかがびしょ濡れになった記憶がある。台風が過ぎ去ったあと、てっきり晴れると思っていた翌朝はどんよりと曇っていて、また雨が降り、それから数日間はそんな天気が続いて、台風一過なんてまるでなかったので雨の好きな僕でもさすがに憂鬱になった。今回はどうなるんだろうか。





ゴーゴリの「死せる魂」の新訳が最近になって河出書房から出版された。
「死せる魂」は長らく絶版だったので、読みたくてもなかなか手に入らなくて困っていた小説のひとつだった。だからこの新訳の発売には本当に嬉しかった。



おとといの夕方ころにアパートを出て、近くの本屋へ向かった。お目当てはもちろん「死せる魂」と、あとこの前のNHKでやっていた漫勉で知った三宅乱丈の「イムリ」という漫画も買うつもりだった。
三宅乱丈という漫画家の存在は漫勉を見るまでまったく知らなくて、なぜこんなじぶん好みの漫画を描くひとを知らなかったのかと、悔しいというかなんというか、本当に、この世は知らないことだらけだなあということを痛切に感じた。





一軒目の本屋にはどちらも置いていなかった。
この店は半年前くらいに潰れた本屋の跡地にまた別の本屋が入ったところで、客の僕にとっては、ただ店の名前が変わっただけで品揃えも内装もほぼなにも変わっていないのでこの店もまた潰れるんだろうなと思っているのだけど、前の店と唯一違うところは、店頭でなんとなくオシャレ感のある観葉植物なんかを売っているところだろう。
久しぶりに行って僕はびっくりしてしまった。一瞬、ここ何屋だよと考えてしまうくらい、観葉植物の置かれているスペースは広かった。そのかわりに新刊の置かれているスペースが狭くなっていて、なんか、もう、本当にここは何屋だよと呆れてしまった。観葉植物が店頭を飾り、本が隅に押しやられている本屋。当然ながらそんな本屋なのか花屋なのかもわからない店に「死せる魂」が売ってるわけもなく、「イムリ」もなかったので二軒目へ。





二軒目にもどちらも置いていなかった。
あまり来ることがない店なので、海外文学の棚がどこにあるかもよくわからず探すのも面倒なので店員に聞いて検索してもらった。
「すみません。ゴーゴリの死せる魂ってありますか?」
すると、なかなか検索結果がでてこない。すこしイライラしながら待っていると店員が「タイトルはこれで本当にあってます?」と聞かれたので、滑舌の悪い僕はもしかしたら聞き間違いされてるのかなと思いつつ見たパソコンの画面に、愕然とした。
店員はタイトルの項目にゴーゴリと打っていたのだ!
嘘だろ!!?ゴーゴリ知らないの!!?
僕は思わず叫びそうになった。読んだことなくても名前くらいは知ってるだろ!!?本に関心のないひとならともかく、一応、本を売ることに携わっている人間がゴーゴリの名前すら知らないなんて!!それともおかしいのは僕なのか?ゴーゴリの名前すら知らないなんておかしいという僕のほうがおかしいのか?ていうかタイトルにゴーゴリを入力したってことは、死せる魂はどこに入力するつもりだったんだ?作者か?シセル・タマシィーっていう外国の作者だとでも思ったのか?誰だよそいつ。すこし面白そうな小説書きそうな名前じゃねえかシセル・タマシィー。
店員は30代後半くらいの女性で、冴えないメガネをかけていかにも文系な雰囲気を漂わせているくせに、ゴーゴリを知らない。そのメガネをかち割ってやりたかった。





ショックを受けつつ、三軒目へ。
ここになかったら諦めて新宿の紀伊国屋書店にいこうと思っていたら、1冊だけ置いてあって、見つけた瞬間僕はその場に崩れ落ちそうになった。
なんとか無事に「死せる魂」を手に入れ、「イムリ」はBOOK・OFFで買った。
アパートに帰り、早速読もうと死せる魂を袋からだして手に取ると、帯を金井美恵子が書いていて、そこにはこんなことが書かれていた。




私たちは小説に対して、どうしてこうも簡単に健忘症兼忘恩の徒になれるのか?


持家政策という国策のせいで、壁面を飾るべく、知的で見栄えのする家具の一種として、各出版社がこぞって「世界文学全集」を出版し、家長や主婦たちが競って買い求めた時代には、「魅せられた魂」も「死せる魂」も区別はつける必要はなかったものの(!)、ゴーゴリの名くらいは知っていた。第一、ゴーゴリを読んで、小説を書いた作家だって存在(多くはないけれど)したのだった。
時は過ぎ、世界文学としてのロシアと言えば、眼にするのはドストエフスキーのみという乏しい時代の読書上の貧しき人々の時代が続いた。(以下略)



ここに書かれている、読書上の貧しき人々の時代というものを(ちなみにドストエフスキーの小説のひとつに『貧しき人々』というタイトルの小説がある。魅せられた魂の作者はたしかロマン・ロランだったはず)身をもって体験した僕は、この金井美恵子の言葉を噛み締めながらしばらく呆然としてしまった。


また未知の小説が読めるのはすごく嬉しい。




では、また。

ファンではあることには間違いない。


今週の月曜日に「君の名は。」を観てきた。
祝日だということをすっかり忘れていたというか知らなくて、どうせ大丈夫だろうけど念のためと前日に空席状況を確認してみたらナイトシアター以外は1、2席しか空いてなくてびっくりした。
これは当日に直接チケットカウンターで買うのは厳しいなと思い、生まれて初めてネットで予約した。昔はクレジット払いだけだったから敬遠していたけど、今はケータイ払いができるようになっていてわりと簡単に予約ができた。映画のチケットを事前に買っておくなんて、なんだかできる大人っぽくてドキドキした。



7時ころに起きて準備をし、新宿へ。
天気は良くなくて、ときおりぱらぱらと小雨が降った。
映画館に到着すると、館内は人で溢れかえっていた。どこもかしこも行列。チケットを発券するのにもすこし時間がかかった。上映が開始するギリギリの時間に来たので、いつもなら必ず買うポップコーンセットを諦めなければいけなかった。平日だったら絶対に買えていたはずなのに、なぜ今日が祝日なのかと、エスカレーターに乗りシアタールームへ向かう間ずっと周囲の人間たちを呪っていた。お前ら全員末代まで呪ってやる!ていうかお前らが末代だくそ野郎!的な。そんなに嫌なら別の日にすればいいのにと自分でも思うのだが、なにがなんでもこの日に観たいという欲求はどうしても抑えきれなかった。





*ここからはネタバレを含むかもしれないのでご注意を





これまで、新海誠は一貫したテーマに対して真面目に臨んでいた。人と人とが理解しあえないもどかしさ、なにかを誰かを忘れていくことへの葛藤、移りゆく時間のさびしさやむなしさ、どうしても埋められない孤独感。そんな文学的(僕はこのフレーズが嫌いなのだけれど、ここではあえて使わせてもらう)なテーマを彼は取り扱ってきたように思う。僕はそういった感傷的で、語弊があるかもしれないけどすこし女々しくてナヨナヨした
テーマに批判的な人間ではないし、むしろ表現の仕方次第では好きなほうだし、新海誠の作品にはすごく好感を持っているほうだ。
ただ、そのテーマに対して真面目すぎるところがあって、全体として物語がずっとはりつめている印象があり、緊張ばかりで弛緩するところがなく、観ていて映像はすごく繊細で抒情的だし面白いには面白いんだけど、無駄に肩が凝るなあという感じがこれまでの作品にはあった。



今回の「君の名は。」は、その欠点が見事に払拭されていたと思う。これまでの作品にはなかったくすりと笑えるコミカルな要素があって(特に三葉のおっぱいのシーン)、物語に良い意味での隙ができたおかげで緩急ができて、シリアスなシーンがこれまで以上のシリアスさと切実さが引き立つようになっていた。


はじめの入れ替わりの見せ方もうまかった。人格が入れ替わるといういくぶん使い古されたモチーフを、普段のふたりと入れ替わったふたりを、たとえば、いつもの三葉→いつもの滝→入れ替わった三葉→入れ替わった滝と、交互に描くのではなく、冒頭で入れ替わった三葉からすぐに、いつもの三葉→入れ替わった滝→いつもの滝→入れ替わった三葉と、若干変則的描いていく進め方は、ふたりはいつ気付くんだろうとすこしじらされている感じがしておもしろかった。


後半もすごかった。まったく予想していない展開だったし、でも新海誠らしいといえば新海誠らしいなあと頷ける展開で、ふたりがはじめて出会う場面の黄昏時の映像の美しさといったら、もう。そして村のみんなを助けるために走っていく三葉といったら、もう。そしてティアマト彗星の神秘的ですこし恐ろしさも感じる映像の美しさといったら、もう。ていうか本当に綺麗だよなぁ、新海誠の作品って……。



しかし、唯一、いや、細かいところを挙げていけばキリがないのだけど、唯一!ここはなんでこんな風にしちゃったんだよマジでってところがあった。ここがちゃんとしていれば、僕は後半ずっと泣いていただろう。それこそ隣に座っていた30代後半くらいの女性を余裕でヒカせるくらいには泣いていただろう。けれど僕は泣かなかった。年をとったのと最近いろいろありすぎて情緒不安定で涙もろくなった僕がそのシーンのせいで泣けなかったのだ。別に泣きたかったわけではないけど、ある種のカタルシスがなかったというのは、けっこうキツイ。




その問題のシーン、それは、ふたりが入れ替わったことに気付いて、ふたりで入れ替わったときのルールを決めて、だけどうまく噛み合わなくて喧嘩をするという場面。


なぜここをハイライトした……?


いや、喧嘩をするところまではハイライトでもまあ許せる。だけど、そのあとだ。
入れ替わった生活がテンポ良くハイライトで流れ、自分の生活を乱された相手を罵っところで、次に先輩とのデートのエピソードが入り、そして別れ際に先輩が「たぶん、はじめは私のことが好きだったよね。でもいまは、ほかに好きなひとができた、ちがう?」と言う。


は?と僕はきょとんとしてしまった。
自分の私生活を乱しまくった「だけ」の相手を好きになるか、普通。
相手の生活を知って、尊敬ってほどではないにしろなにか見直すところがあったり、なにかをきっかけにして意気投合したりしたエピソードなり場面があったなら話は別だ。それなら先輩の言った発言も素直に捉えられただろう。でもそんなふたりが仲良くなる過程は一切描かれていないし、入れ替わったことに気付く前と後で、ふたりの距離感が変化したかどうかと言われると、してないんじゃないか、と僕は思ってしまう。
顔にマジックでバカとかアホとか書くくらいにうっとおしい存在の相手を、仲の良い友達としてならともかく(それにさえ無理があると僕は思う)、果たして必死に追い求めるほど好きになれるものなのだろうか。喧嘩するほど仲が良いなんてことわざは、この場合には当てはまらないだろう。仲の良い人間同士がいつも喧嘩をしてるわけではないのだから。けれどふたりは入れ替わるたびに、相手の振る舞いに不満を持って喧嘩をする「だけ」の場面しかなかった。そんな相手を果たして好きになるだろうか?
だから僕はここらへんからおいてけぼりをくらい、後半でまったく泣けなかった。
もともとふたりは惹かれあう運命だったんですよ……とか根拠のない暴論を吐かれたらもうそこで試合終了なわけだけど、たしかにふたりがお互いを好きになったのに理由はなくてもいいのかもしれない。誰かを好きになるということに理由なんていらない。でも、あれだけちゃんと綿密につくられた物語なのに、肝心のふたりがおたがいのなにかに惹かれるシーンがないというのはいかがなものか。
まあ、でも本当におもしろかった。RADWIMPSの曲も最高だったし。絶対アルバム買うわこれ。




上映が終わり、僕はトイレへ駆け込んだ。ポップコーンセットを買わなかったのでいつもほどの尿意を感じてはいなかったけれど、それでもやはり出したいものは出したかった。
映画を一本観終わった疲れとあいまって一抹の虚脱感とともに小便をしていると、となりで同じく小便をしようとしている少年が「マジかよ…マジかよ…」とつぶやきはじめた。
そのただならぬ声に、なにごとかと少年の視線を追ってみると、彼のジーンズの裾からなにかの水滴がぽたぽたと垂れていて、靴はちょっとした水たまりに浸っていた。どうやら、寸前ところで我慢の限界がきてしまったらしい。マジかよ…と僕が頭のなかでつぶやいている間にも、彼は焦りと絶望のいりまじる声で「マジかよ…マジかよ…」と祈るように連呼していた。
どうするんだろうと思って、でもあんまりじろじろ見るのも可哀想だから横目でうっすら見守っていると、こういうとき人間というのは語彙が少なくなるものなのだろう、少年はまだずっと「マジかよ…マジかよ…」とつぶやきながら、とりあえずどうすることもできないからトイレを出て、そして立ち止まり、そして、「あー、マジかよ…」と言った。
もうちょっと見ていたかったけど、人混みにいると気持ち悪くなる体質なので僕は絶望しきった少年を置いて映画館をでた。

恵みの夜

墓地の塀を見上げると、牡丹桜の梢が塀を乗り越えて道まではみでている。
初夏には瑞々しく艶のあった緑の葉も夏の喧騒を過ぎた今では埃や排気ガスで薄汚れて、虫の食べた小さな穴が所々に開いている。けれど、夜、外灯に上から照らされて透ける葉脈たちは相変わらず綺麗だ。
陸橋近くの塀には蔓草が絡みついているのだけれど、たしか6月あたりに1度塀の半分を覆っていたのをすべて取り払われてしまった。それでも雑草は強いもので、2ヶ月しか経っていないのにはやくも塀の隅を埋めるくらいには伸びはじめて、山羊の足のような三ツ又に分かれた葉を少ないながらも揺らしていた。蔓草の葉が揺れて擦れあう音は聞いていてなんでこんなに気持ちいいんだろうかと考えて、そうか、風を感じるからだ、と思った。風がいまそこにいることを感じさせてくれる音。どおりで涼しさを感じるわけだ。
塀に小便をして黒い染みをつくった飼い犬が、今度は細い脚をプルプルさせながら踏んばってうんこをしているところに出くわした。墓地の塀にそんなことして罰当たりな、金玉が腫れても知らないぞ、と思ったけれど、それは稲荷神社だったっけ?とすこし考える。



空気にすこし秋の気配が混じっている。今夜は月がまんまるらしい。冷房ずっとつけっぱなしだったのに電気代が2000円台だった。去年とかはたまにつけたりして7000円くらいだったのに。エアコンはつけっぱなしがいいというのは本当だった。すこし嬉しかった。



ボルヘスを久しぶりに読んでいる。「砂の本」。ボルヘスの知識量は尋常ではなく、特に神学においては知らないことはないんじゃないかというほど、知識から知識へと横断する際のその距離が遠すぎて、ただついていくのでも苦労する。むしろついていけてないことのほうが多い。その特性は小説よりもエッセイのほうがすごいのだけれど。
砂の本に収録されている短編のなかでは、やはり「他者」と「疲れた男のユートピア」が好きだ。こうして並べてみると、前者は過去と、後者は未来と現在がなにかの手違いで接続されてしまう話だ。あと意外と「人智の思い及ばぬところ」もいい。
解説しようかと思ったけど、めんどくさいからまたの機会にでも。





NHKでやっていた新海誠川上未映子の対談で、川上未映子が、

「いつかじぶんは死ぬんですよ!それってすごくないですか?ここにいるみんな、いつかは絶対に死ぬ。なのにみんなこのすごさをわかってくれない。たぶんテレビの前のひとも、はあ?あたりまえじゃんって思ってるんでしょうけど」

と言っていて、じぶんと同じようなことを真剣に考えて抱えて生きている人間がたしかにいるんだなあ、よかったあと思ったら、涙がでてきた。「君の名は。」はとりあえず観たい。しかしいったいこの人気はどういうことなんだ?言の葉の庭のときなんか全然注目されてなかったのに。しかも聞けば観にくる客層のほとんどがカップルらしいじゃないか。おかしい。新海誠の映画は童貞心をくすぐられる映画(誉めてます)のはずなのに。すべての作品に一応目を通していて、いくつかのものには好感を持っている人間としては、果たして新海誠は変わってしまったのか是非映画館で確かめてみなければいけない。



では、また。

帰ってきたウルトラマン

新幹線が東へと向かうにつれて、雲は厚くなり色も黒ずんで窓の外は見るからに不穏な空気をはらんでいた。
新富士駅に到着したあたりで窓に水滴がひとつふたつとつきはじめて、新幹線が加速するにつれ、いくつかは不格好な線を残しながら、またその他のいくつかはおたまじゃくしのように横へ横へとずれていき、やがて本降りの場所に突入すると、水滴はなくなり薄い水の膜が窓を覆った。



楽しい1週間だった。
帰省する前日に神奈川に住む友人の家に泊まったのもあってか、いつもより日程が長く感じた。けれどバイト先とアパートを往復する東京での日常よりは短く感じて、なんだか変な気分でこれを書いている。
生まれ育った土地に帰ることがしだいに"非日常"化していくのを、年をとるごとに強く感じる。好き勝手にふらふら生きているどら息子の僕に対して、両親は文句ひとつ言わず協力的で関係も良好だし、数少ない友人たちは昔と変わらない態度で歓迎してくれる。それでも、僕がそこにいなかったという空白の時間がそのあいだに横たわっているのを、やはり感じずにはいられない。これは決してネガティブな感情ではなく、地元を離れて暮らしている人間なら誰もが抱くものなのだと思う。空白の時間は、家の近くにあったはずのローソンがつぶれてコンビニ特有の四角い建物だけが残っていたり、もうすぐ60歳になる父親ムエタイをはじめたり、友人がおいしい油そばを出す知らない店につれていってくれたりすることからも感じる。ときおりもどかしくもあるけれど、それをすこし楽しんでいる自分もいる。



どうせだったら地元で過ごした1週間をここにコト細かく具体的に書いてみようかと思ったけれど、めんどくさいのでやめておく。


雲に切れ間ができはじめて、よくある田舎の風景に鈍い光が差した。それでも雲は厚く、黒ずんでいる。雨は降っていない。



地元で読む用に何冊かの本をけっこう悩みながら選んで持っていたのに、けっきょく実家にあった柴崎友香の「寝ても覚めても」を読んでいた。帰る前夜に読み終わって、興奮してなかなか眠れなかった。前半はめちゃくちゃ面白かったのに、後半の尻すぼみ感がもったいなかった。前半にあったなにげない強烈なリアリティが後半ではあるにはあるけれど主人公が意中の相手との再会にとらわれすぎているせいか弱まっていて、デシカメやテレビなどの視点を拝借して空間や時間を語るのを繰り返すばかりで、面白かったけれど、もったいない。面白かったけれど。そしてたぶん読んだ人なら分かるだろうが、今ここに書いている文章は「寝ても覚めても」の文章に多少なりとも影響されている。影響されやすいんです、僕。




通路をカランカランと音を立てながら缶コーヒーが転がっていった。もう品川だ。やっぱり新幹線は速いなあ。



次に帰省するのはたぶん来年の冬ころになるだろうと、はやくも期待に近い予感がしている。そのころには、今書いている小説がちゃんとした形で完成していればと、こちらは期待ばかりが先行している。



では、また東京で。