去年の
8月。
暑さが充満している。ただじっとしているだけでも息苦しい熱を体がまとっているように感じる。アイスクリームみたいに溶けそうだ。いっそのこと溶けてしまったほうが楽なんじゃないかと思うくらい、年々ひどくなる夏の猛暑に嫌気がさしている。
娘が生まれてもう4ヶ月が経った。
早いのか遅いのか、最近、時間が経つということに対してちゃんと考えてないのと、そんな余裕もないからか、よく分からない。
娘は寝返りができるようになった。けれど私はまだ見たことがない。妻が撮った動画ではあるけれど、その現場に遭遇できずにいる。いつになったら見れるのか、ヤキモキした気持ちで過ごしている。この連休中にはぜひともお目にかかりたい。
…と書いた数時間後、娘は立て続けに寝返りをしまくり、私は驚きのあまり呆気にとられた。
娘と過ごす時間の中で、思うことがある。
どんな人間も、ひとりではなにもできなかった時期がある。おしっこやうんこをすればオムツを替え、お腹が空けばミルクを飲ませ、眠たくなったらあやしてくれる別の人間が必要だった時期がある。その行為は無償の愛情、といってしまうと大袈裟だけれど、それに似たものがなければできないものなんじゃないだろうか。仮に金銭が干渉していたとしても、その行為自体になにかしらの愛情めいたものがなければできないと、妻と娘の世話をしていると思う。
逆に、今自らの足で歩いているみんながそういう時期を経てそうなったと思うと不思議だ。最近は、誰かと話しているとき、ふと、この人も娘と同じ時期があったのかと考えると、おかしくて笑ってしまいそうになる。バカでかいダミ声で部下を一喝する部長も、いつも眉間にシワを寄せて不機嫌そうな課長も、TVの中でシュールな演技をする俳優も、国民を省みない政治家も、これまでも、この先もずっと孤独なんだと感じていたいつかの私も。
親がいなくても子は育つ。と会社の人に言われた。この格言を考えたのはきっと男だろう。
娘はいずれ歩きだす。寝返りさえも一生懸命しているこの子を見ていると想像さえつかない。