ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

金玉踏めば夏の終わり

 

下の娘が生まれて半年が経とうとしている。

娘たちを基準にして時間の経過を考えてしまうのを、自然に受け入れてしまっている自分に今気づき、驚いている。

ふたりの娘は元気すぎるくらい元気だ。元気なのはいいことだ。病気がちになるくらいなら、元気すぎる娘がソファから飛び降りた拍子に、私のキンタマを踏むことくらい、別に我慢できる。

と書いていて、いや、ちょっと違うぞと、私は気づいた。娘が元気なのと、私のキンタマが踏まれることに、因果関係はないのでは、と。娘が元気だからといって、じゃあ世の父親はみんなキンタマを踏まれているのかと。いや、決してそんなことはないはずだ。では、私のキンタマが踏まれることによって、それがなにか神事的な作用を及ぼし、娘の健康が祈願され、私がキンタマの痛みに苦しみ悶えることによって成就しているとするならば、私はこの痛みを甘んじて受け入れよう。しかし、現実は違う。絶対に違う。だって聞いたことないもん。キンタマ踏まれて娘の健康祈願するなんて。なんだよそれ。なんで娘の健康祈願するのにキンタマ踏まれなきゃいけないんだよ。おかしいだろ。

だから、娘が元気なのはいいことだけれど、キンタマだけは踏まないでほしい。

 

 

エアコンのない環境で働いているせいか、暑さが遠のいていくのを肌で感じる。夜には鈴虫が鳴くようになった。これからだんだんと夜が長くなっていくのだろう。体を軽くする涼しさとともに、陽の光も希薄になり、眩しさだけが瞼の裏に残る、意味のない切なさが香る秋がもうすぐやってくる。昔ほど楽しみに思えないのは、なぜなのか。それは秋になったら分かるのかもしれない。