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いつかの私というフィクション

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

雨上がりと戯れた日のこと

朝にはもうすでに降っていて、夕方ころになってようやくやんだ雨の余韻がまだあたりをさまよっているらしく、鼻から息を吸うと、空気といっしょに入り込んできた極小の水の粒が鼻腔にひっつく感じがして、それはかすかに甘く、湿っぽいせいか、ひとを意味もなく感傷的にさせる匂いがした。はるか上空から地上へ叩きつけられ、雨音と呼ばれる小気味いい騒音をたてながら 弾けて四散した無数の滴が、今は夜の帳のなかで路面を濡らし、下水道を流れ、やがて海へと至る、雨という名前を失い、水という名前を得た彼らをよそに、道の真ん中にできた水たまりを僕は跨いだ。
アパートへ帰るところだった。くたびれた仕事着のまま、いつもと同じ順路を通り、いつものように急いでいるわけでもないのに革靴の踵をカツカツ威勢よく響かせながら早足で歩いていた。
時刻も遅いせいかまばらに店のシャッターが降りている商店街を抜けて、陸橋を渡り、もうすぐアパートの近くであるという目印のなだらかな下り坂にさしかかると、その先で、高架線に沿って等間隔で並んでいる外灯に照らされた雨の余韻ーー霧のようにたゆたう水の微粒子が、プラチナのような白っぽい輝きできらめいていた。
霧のように、というか、これは霧と呼ぶべき現象なのだろうか。霧にしては密度が薄い気がする。視界を遮るほどではなく、かといって先を見通すのにけっして邪魔じゃないわけでもなく、海中に漂うプランクトンのように目前に迫るときになってはじめて姿をあらわす、微細でかよわいこの自然現象に、果たして名前はあるのだろうか。雨から生まれたプラチナ色のプランクトンは、春の夜の生ぬるい大気のなかをゆったりと泳いでいるようにも、あってないような微風にただ身を任せているだけのようにも見えて、その様子はどこか現実ばなれしていたし、なぜか笑うことしかできない滑稽な悲しさがあった。でもその悲しさはもしかしたら、ただ僕が意味もなく感傷的になっているせいなのかもしれなかった。しかし、もしそうだとしても、感傷的になった理由は鼻腔にひっついてきた彼らの匂いに原因があるので、やはりさっき感じた悲しさは、彼らとなにかしらの繋がりがあるということになるのだろう。そしてそれはあくまで主観的な、自分自身でさえ窺いしれない僕の記憶の奥底で繋がっているなにかとなにかのことなんだろう。
水の粒が漂う夜道を僕は突っ切っていく。肌をさらしている部分ーー頬や手の産毛に、極小の水の粒が付着する、ほとんど錯覚ともいえるような感触がした。このままずっとどこまでも歩いていったら、水の粒はどんどん体にくっつき集まって水滴になり、水滴がしだいに量を増すと僕を包みこみはじめ、やがて小さなプールのような箱形の水の集合体ができあがって、そのなかで僕は溺死する。不本意な自殺。そんな馬鹿な。けれどやはり、体の周囲にまとわりつく水の粒は、湿気と呼んでしまったほうがふさわしいのかもしれないほど、おとなしいとるに足らない存在だった。
意味のない感傷は、意味がないだけにどうすることもできず、なかなか消えてくれなかった。感傷に煽られた焦りだけが増していく。僕は堪えきれず記憶を探る。あてのない旅だった。時間軸の風化した断片的な映像が次々にフラッシュバックして、さまざまな感情がよみがえり、けれどそのさまざまな感情は遠い国の喧騒のようで、かつてはじぶんのものだったはずなのに、今ではひどく他人事に思えた。身に迫る謎の焦燥感だけが、現在の僕だけが持つ唯一の感情であり、リアルだった。僕の内面に呼応するように歩調がひとりでに速くなる。目の前を歩いていたカップルを追い越し、革靴はカツカツと威勢よく濡れたアスファルトを踏み鳴らす。カップルは楽しそうにほほえみながら手を繋ぎ、なにかふたりだけにしか分からない暗号のような会話をしていた。「好き」だとか「愛してる」というわかりやすい言葉ではなく、限りなく遠い地点から愛を確かめ合い育んでいる彼らの他愛のない会話は、ときとして亀裂や最期を生むきっかけにもなることを、ふたりは知っているのだろうか?僕はもう一度、鼻から息を吸う。かすかに甘く、湿っぽい雨上がりの匂いが全身に行き渡り、五感を弛緩させる一種の陶酔感で体が溶けそうになる。けっきょく、この匂いが好きなんだと、僕は思い、笑った。笑ったあとで、誰かに見られてはいないかとあたりを見回したけれど、誰もいなかった。追い越したカップルもどこかの道を曲がったらしい。
安心して、口笛でも吹いてやろうかと唇を尖らしたけれど、そういえば吹けないことを思い出して、かわりに鼻唄でガマンした。



いつの間にかアパートはもうすぐそこにあった。僕は考えるのをやめて、コンビニに寄り、お菓子を大量に買って、パンパンに膨らんだビニール袋を左手に提げたまま、埃っぽい部屋へと帰っていった。