ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

カロを目指して(掌編)

ここでは雲が地面に浮いている。標高2,000mにたどり着いたとき、ひたすら茶色い斜面を登ることだけを考え、歩いていた僕らは自然と足を止めた。積層雲だ。アキラは寝ぼけながら僕らの足元から空のずっと向こうまで広がっている雲を力なく指さしてむにゃむにゃそう言った。たぶんそう言った。気圧の変化で耳鳴りがして音がくぐもって聞こえる。意識してゆっくり唾を飲み込むと、耳の穴が広がったような感じがした。「ただの水蒸気のかたまりなのに」サトシはぼんやりと呟いた。そのあとに続く言葉をサトシは言おうとしなかった。アキラは首をだらんと垂らしてまた寝始めた。雲はすきとおった風をのみこみながら、龍の背びれみたいにゆっくりと厳かにうごめている。しばらくして僕らはまた歩きだした。山道のそばでまっさらな陽射しにさらされ、まぶしく光る小さな黄色い花が咲いていた。登ってきた道にも同じ花が咲いていただろうかと思ったけれど、どうしても思い出せなかった。この道を通ることはもうないのに。僕は急に損をした気分になった。

サトシが車がほしいと言いだしたので、僕らは山に登ることになった。僕らの地元ではわりと有名だけど、電車で1時間ほどで着く無人駅のそばに轟山という高い山がある。その山頂付近には車が放置されていて、なかには鍵がさしたままのものもあるらしい。友達の友達が轟山に登って車を取ってきたと、サトシは言った。どうやってあの山を車で降りてきたんだ?救助隊を呼んで、ヘリで車ごと運んでもらったんだと。サトシはなんだか遠い目をしていた。ねえ、悔しくない?そんな馬鹿な真似をしたやつが俺たちじゃないって。

もうすぐ山頂に着きそうなのに、アキラはまだ寝ながら歩いている。グァーゴゴゴと、ときどきイビキが後ろから聞こえてくる。無理もない。数時間前まで、僕らは居酒屋で飲んでいたのだから。しかも、明日は仕事だ。明日は仕事というだけで、一歩踏みはずせば命の危険にだってなりかねない状況で寝てしまうのには充分な理由だろう。

車が山頂に放置されている。そんな噂を信じられるほど、僕らはもう子供ではない。けれど久しぶりに再会した友人の無茶な提案を笑って聞き流せるほど、僕らは大人ではなかった。それに少し酔ってもいた。いや、少しではなく、かなりかもしれない。

急いで家からかき集めた登山道具一式は、押入れにしまったときそのままの状態で見つかった。高校を卒業して以来手に取ると、いろんな記憶が蘇り懐かしく、どれも腐ったチーズみたいに臭かった。

山頂に着いたとき、サトシが短い奇声を上げ、足を止めた。サトシの背中越しからのぞいた先には、小学校のグラウンドくらいある土地に、きれいに整列した車が何十台と並んでいた。サトシはリュックを投げ捨て、走り出した。僕はアキラを起こそうと揺すってみたけれど、一瞬を目を見開いて「すごいな」とつぶやいて、また寝てしまった。車はどれも、見たことのないフォルムをしていた。タイヤが星型の車、透明で見えない車、水みたいに表面が波打っている車、犬の匂いのする車。宝石みたいに輝くボディをそっと撫で、なかをのぞいたサトシは「鍵がある」と言った。

「ほしいのか」見知らぬ声がして振り向くと、背の高い老人が眉間にシワを寄せて立っていた。

「お前ら、車ほしいのか」突然の闖入者に驚いて、サトシは小さく「はい」と答えて頷いた。すると老人は車の性能や使用方法を淡々と説明してくれた。説明はどれも車とは無関係に聞こえた。こいつは8時間以上日光にさらさないとダメだとか、こいつは緑色のセーターを着た女の子が好きだ、とか。唯一わかったのは、ある手順を踏むと空を飛べるということだった。実際に老人は実演してみせてくれた。

「ついてきな」

老人のあとについていくと、車の並ぶその奥に簡素な山小屋があり、そばには高山に似つかわしくない大木が聳え立っていた。大木には無数の靴が引っかかっていた。

「お前ら、車がほしけりゃ靴をここから投げてあの木にぶら下げてみな。成功したら好きな車を一台やる。失敗したら車はやらん。ただし成功しようが失敗しようが靴はここに置いていってもらう。ここまで来た道を裸足で下山するのがどういうことか、お前らが1番わかっていることだと思うがな」老人は表情を変えずに言った。

大木までは30メートルほど。投げて届かない距離ではない。僕は助走をつけて投げた。紐で結んだ靴はたがいにぶつかりあいながらゆっくり弧を描いて大木の枝にぶつかったーーが、バサバサと音を立てて滑っていき、靴は地面に落ちてしまった。次にサトシの投げた靴は大木を逸れて山の斜面へ姿を消してしまった。最後にアキラの靴をふたりで外し、サトシがもう一度投げたけれど、今度は木の手前であえなく落下してしまった。

「失敗だな」老人は言った。

山小屋へ向かう老人の後ろ姿を見送っていると、サトシがアキラを起こしてくれと、なぜか小声で耳打ちしてきた。アキラを連れてくると、サトシは表面が水のように波打つ車の前に立っていた。そして黙ってそおっと後部座席のドアを開けてアキラを乗せると、僕に助手席へ乗るよう促した。

僕らの様子を見た老人がこっちへ向かってきていた。考える暇もなく僕はサトシとほぼ同時に車へ乗り込んだ。サトシがエンジンをかけ、さっき老人が説明していた手順で車を空中へ浮かび上がらせた。老人はもうすぐそこまで来ていたけれど、僕らのほうが一歩早かった。車は勢いよく飛び出し、顔を真っ赤にして斧を振り上げている老人の姿はどんどん小さくなっていく。サトシが窓を開けると冷たい風が車内にどおっと入ってきた。車は雲海の上を時速120キロで走っていく。雲の地平線は地球の果てまで続いていそうだった。後部座席で横になっていたアキラが起き上がり、あくびをした。

「ここは天国か?」

僕とサトシは笑った。車は厚い雲を抜け、やがて僕らの住む町が見えてきた。

あれ以来、どうやっても空を飛べないんだよ。高いところじゃないとダメなのかもしれないけど、失敗したらヤバイだろ?東京に戻ったサトシは相変わらずあの車に乗っている。

あの車を目にするたび、かわいそうなことをしたと、僕は顔を真っ赤にして斧を振り上げていた老人のことを思い出す。