ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

道化の素顔

 

 

11月。外でじっとしていると、冷たい空気が手足を通ってじわじわと体の奥へ浸透していく感じがする。まだ一瞬で体温を奪われる寒さにはほど遠いけど、それでもやっぱり寒いと感じる時間が長くなった。

家の小さな庭に生える雑草の伸びが遅くなり、金木犀の香りは数日しかもたなかった。金木犀の香りにはいろんな記憶が詰まっている。良い悪いでは区別できない、混沌とした感情を呼び覚まして、現実とはかけ離れた遠い地平線へ連れ去られる。一瞬の幻、けれどそれはたしかに現実だった。いつかの私が過ごした時間、誰かと交わした約束、退屈、木漏れ陽、なんとなく歩いた道、夜の街、港のさざ波、繋いだ手、川のせせらぎ、冷たい唇、たしかにそこにあった、すでになくなったものたち。通り過ぎたはずの景色と出会う一瞬の邂逅を金木犀の香りはもたらしてくれる。そして終わりには体の奥にずしんと重たいなにかを静かに残していく。そのなにかは年をかさねるごとに重たくなっている気がした。

 

 

 

「ジョーカー」を観てきた。嫁と、嫁の弟と妹の4人で。嫁の弟はこれが2回目で、また観たいからとついてきた。上映までまだじかんがあったので夜の街を歩いた。なにも食べてない嫁の弟と妹はマックで食事をした。ついでに私の分も注文した。ハンバーガーは遅い時間であればあるほどうまく感じる。

 

ホアキン・フェニックスの演技が素晴らしい。特に喫煙シーン。現代の風潮のせいなのか、タバコをかっこよく吸うシーンを最近の映画では見かけない。別にタバコをカッコよく吸わなきゃいけないわけじゃないけど、古典的なモチーフが時間を跳躍して現代に蘇ったような気がして興奮した。あと階段を踊りながら降りるシーン。あまりにも美しくて鳥肌がたった。

映画全体としてみると、個人的にはやはり「ダークナイト」のジョーカーを上回ることはなかった。というか、ダークナイトのジョーカーがすごすぎる。顔の傷のエピソードがコロコロ変わるところとか、入院しているハービー・デントとの会話とか。ダークナイトのジョーカーには、背景がない。社会的にどんな人間だったかもわからないし、悪事を働く動機もわからない。映画が進むごとに、わからないことが解消されるどころかどんどん肥大していく。しかも彼の語る言葉はどれも口からでまかせだ。ハービー・デントを悪の道へ走らせる説得もどこか相手に合わせた言葉を選び、本心は語っていない。実際、「俺が指示したわけじゃない」と嘘をついて相手を諭している。彼のする行動には真実がない。中身はからっぽだからこそ、なにものにも縛られず、社会的な悪を越えた邪悪さを彼は体現している。悪魔がいるとしたら、きっと彼のような存在なのだろう。

 

今回の「ジョーカー」は、ジョーカーがジョーカーになる誕生譚を描いている。映画のあらすじを書くのはめんどくさいので、ここでは省く。ひっかかったのは、バットマンの父親が主人公を殴ったシーン。やりすぎじゃないか?と違和感を覚えた。主人公の視点で物語が進んでいるのだから、理由はどうあれ観客には父親が悪く映ってしまう。これでは主人公側の社会=富裕層=悪という構図がますます強化され、主人公側に正義があるように見えてしまう。ダメだろ。ジョーカーに正義があるように映っちゃダメだろ。これでは単純な勧善懲悪となんら変わりがない。あのシーンは父親がただ去っていくとか、肩か背中をぽんと叩いて去っていくとかで良かったはずだ。殴るって。暴力って。そんな血の気の多いヤツだったら家族守るために拳銃持ってる奴にも殴りかかるだろ。と私は観ながらそう思った。過去作のパラレルな世界とすれば理由はつくけど、それでもやっぱり、単体の映画として観てもどうにも腑に落ちない。主人公は「僕の行動にはイデオロギーはない」と何度も言う。けれど、映画にはイデオロギーが蔓延しているようにみえる。ジョーカーを素材としてだけ扱い、現状の社会に対する不満や憤りだけが、画面に映し出されているようにみえてしまう。

 

 

 

帰りの車中、嫁が「おもしろかったね」と言っていたので、それならそれでいいかとも思った。