ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

水曜どうでしょうに関する新たな?仮説 前編

みなさんは、水曜どうでしょうを観たことはあるだろうか。
僕は大好きで、誇張ではなくれっきとした事実として毎日観ている。晩ごはんを食べるときは決まって水曜どうでしょうを流している。食物を咀嚼しながら同時に水曜どうでしょうも視覚を介して体内へ取り込んでいるわけだ。外食などをしたときには、夜、寝る前に子守唄かわりに流している。お金がないのでDVDは滅多に買えず、テレビでやったのを録画してそれをその日の気分によってどのシリーズを観るかを選択している。なので初めて観るシリーズなどとっくになくなっていて、同じものを何度も何度も繰り返し観ている。
そんな同じものを何度も観ていて飽きないのかと聞かれれば、正直、多少のまんねり感はあるものの、やはり1日1回は観ないと落ち着かない。
僕にとって水曜どうでしょうを観ることは単なる娯楽ではなくて、老人が健康のために朝する乾布摩擦のような日課でもあり、丸の内のOLが美容を保つために飲むビタミン剤のような補助栄養食品でもあり、つまりは他人からみればいくらでも代替可能でそんなことはしてもしなくてもどっちでもいいものかもしれなくても、じぶんには欠かすことのできない唯一無二の大切な存在なのだ。そういうものは誰にだってあるはずだ。たぶん。
それに、何十回も観ていくうちに、2、3回観ただけでは気がつかない新たな違う側面も見えてくる。
今回は、そんなふうにして気がついた、というか、もしかしたらそうなのかもしれないという仮説を書いていきたいと思う。


そもそも水曜どうでしょうとは一体なんなのか?


簡単に説明すると、1996年10月9日に放送を開始した北海道発のローカルテレビ番組である。
出演者は大泉洋(大泉さん)、鈴井貴之(ミスター)のふたりで、ディレクターの藤村忠寿(藤やん)が声だけで番組の進行役をつとめ、同じくディレクターの嬉野雅道(うれしー)がカメラを回している。
水曜どうでしょうはほぼこの4人で制作されている。
一応、形式上は旅番組扱いになっているけれど、一般的な旅番組のように赴いた先々の土地の景色や観光地や名物が紹介されるのは稀で、内容は移動中に交わされる4人の会話がほとんどを占めている。どちらかといえばある目的に向かって頑張るがためにハプニングを引き起こしたり災難に遭ったりして参っている4人の姿がこの番組のウリであり、ほとんどの視聴者が求めているものもそこにある。
なによりも有名なのが「サイコロの旅」シリーズだろう。
サイコロを振り、出た目によって行く目的地が決まるという、水曜どうでしょうが最も誇る名物企画だ。
1~6までの数字に藤やんがそれぞれ、物理的にも資金的にも移動可能な範囲の地名を割り当て、大泉さんかミスターのどちらかがサイコロを振り、その出た数字に割り当てられた場所に向かう。目的地に着いたら、すぐにまた藤やんがそれぞれの数字に移動可能な地名を割り当て、また大泉さんかミスターのどちらかがサイコロを振り、その出た目に割り当てられた場所に向かうという、いたってシンプルなルールのもとで番組は進行していく。
ゴールは北海道なのだが、これがなかなかたどり着けない。数字の半分が北海道の目であっても、運の悪いふたりは正反対の九州へいく目をだしてしまったりする。特にミスターは「ダメ人間」と称されるほど悪い目をだす。大泉さんが北海道へ近づく目を地道にだしても、ミスターはその努力を1発で帳消しにする九州へ向かう目をだす。藤やんが冗談半分で割り当てた、最悪の目を出してしまうのだ。そして4人は苦しみながら、あるいはぼやきながら、あるいはうなされながら移動する。そこが面白い。
彼らはどんな苦難も笑いに変えるために奮闘する。どんなに苦しくても、どんなに頑張っていようとも、こういう企画ものにありがちな、やすっぽいドラマチックな感動へは傾かない。視聴者を安易に泣かせようなんてこれっぽちも考えない。歯をくいしばってすべてを笑いに変える。自分たちをあえてカッコ悪く撮る。それが水曜どうでしょうの特徴であり美点でもある。これがエンターテイメントだ!と言われている気がするのは僕だけだろうか。しかしこんな芸当ができるのは、あの4人それぞれの面白さがあってこそ、初めて成り立つ奇跡のようなものだとも思うのだけれど。




あと、水曜どうでしょうのもうひとつの特徴として知られているのは、「やらせ」がないことだろう。
「サイコロの旅」にしても、サイコロを振って出た目の目的地には、番組の流れ関係なしにかならず向かう。振り直しなどありえない。その目的地がどんなに地味な土地だろうが、あまり盛り上がらなそうな移動方法であろうが、たとえタイムアップまでにゴールできない目がでようが、サイコロを振り出た以上は必ず向かう。中途半端に番組が終わろうが、お構いなしなのだ。それはどのシリーズにも通じる理念でもある。まさにガチンコだ。ガチンコファイトクラブよりもガチンコなのだ。
たとえ「やらせ」に近い行為をしたとしても、それは視聴者に分かるように示される。わたしたちはいま「やらせ」をしています、といった具合に。それはもうすでに「やらせ」ではなくて、彼らのダメっぷりをわざと暴露しているに過ぎない。それが面白くて、そこに視聴者はある種の安心感を得る。この4人は自分たちの醜態を包み隠さず晒してくれていると。他のテレビ番組とは違い、作られた笑いではなく、正真正銘、台本なしの笑いを提供してくれているのだと。


いや、果たしてそれは本当だろうか?
本当に彼らは、僕ら視聴者になにも包み隠さず、すべてをさらけだしてくれているのだろうか?
彼らのもたらす笑いが作られたものではないという意見には、僕もほぼ賛成だが、彼らが包み隠さず、彼らのすべてをさらけ出しているという点、ここに僕は異を唱えたいと思う。
今までのシリーズで、本当に「やらせ」はなかったのだろうか?




「北海道212市町村 カントリーサインの旅」を観たことはあるだろうか。
これは、「北海道の番組なのに、北海道での企画がなさすぎる」という名目で行われた、水曜どうでしょうの歴史のなかでも、比較的古い年代にはいるシリーズのひとつだ。
企画のルールは「サイコロの旅」とほとんど変わらない。
ただ行き先を決めるのはサイコロではなく、カントリーサインで決める。
カントリーサインとは、各市町村がそれぞれの特色を絵で表したものだ。たとえば、札幌市ならこんな感じ。


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こういうものが北海道212市町村すべての境に看板として道のそばに設置されている。
これを印刷してつくったカードをランダムに引き、引いたカードに描かれたカントリーサインを実際に行ってぜんぶ見てくるという、サイコロの旅同様、いたってシンプルなルールだった。


しかしこれ、冷静に考えてみると、とんでもないルールなのだ。



*ここからはネタバレになるのでご了承ください。(YouTubeに番組があがっていたのでリンクを貼ろうと思ったけれど、なんか危ない気がしたのでやめました)



第1夜、4人は札幌市からレンタカーに乗って出発する。
引いたカードは夕張市カントリーサイン
夕張に向かう車中、4人のトークは番組が始まったばかりとあって意気揚々と弾んでいた。
運転手である大泉さんもこの日に合わせて体調を整えているとあり、この企画に対してぼやきながらもなんだかんだ元気だった。夕張には1時間ほどで到着した。道の脇にカントリーサインを発見。時刻は夜中の0時40分。着いて早速カードを引くと、次は幌加内町。夕張からは2時間ほどで到着する町だった。

第2夜、幌加内町には3時半ころに到着した。このときすでに4人は若干眠たげだった。しかしここは数々の苦難を乗り越えてきたどうでしょう班、そんな素振りはおくびにもださず(いやちょっとでてるかも)、まだ元気にトークをしていた。
次に引いたのは雨竜町幌加内町とはかなり近いところにあり、喜ぶどうでしょう班。トークは徹夜したときになるあの変なテンションで交わされていた。
このとき、雨竜町に向かう車中で、藤やんはある提案をした。


「次、鈴井さんにカードを引いてもらうってのはどうでしょう?」


ここで注意してほしいのは、藤やんはこの水曜どうでしょうのディレクターということだ。ただ馬鹿みたいに大声で笑っているだけではなく、常に番組の流れを考えている人間だということ。
これはあくまで僕の憶測だが、藤やんはこのままだと番組的に盛り上がらないと判断したのだと思う。国道275号線を行ったり来たりしているだけで、どうでしょうの持ち味である「無茶ぶり」、サイコロの旅でいう「九州の目」がまだでていないのだ。しかも今のところほとんど、というかぜんぶが車中でのトーク。これでは番組の流れがだらっとしてしまう。いくら大泉さんのトークが面白いとはいえ、限界がある。
そこで、今まで大泉さんが引いていたカントリーサインを、「ダメ人間」であるミスターに引かせて、遠ければやっぱりミスターだな!となり、近ければミスターなのにすごいじゃん!となることで、どっちに転んでも多少の盛り上がりは見込めるし、カードを引くときの緊張感も生まれる。そう考えたのだと思う。
そして、雨竜町でミスターが引いたカードは、名寄市幌加内町の隣にあり、これまた微妙な距離に位置するところだった。約2時間半で着いてしまうし、近い距離といえるほどでもない。藤やんの目論みは不発に終わった。
幌加内町をもういちど通り、名寄市に着いたのが朝の6時10分。カントリーサイン前で、大泉さんの目はほとんど開いておらず、呂律もまわっていない。藤やんの声もどこかおかしい。ミスターの機嫌もすこし悪い。
カントリーサインを引くのは今回もミスターが務めた。引いたのは、緑の大きな木が描かれたカントリーサイン豊頃町
4人は地図上で豊頃町を探すけれど、なかなか見つからない。そして、発見したと同時に、「あぁっ!!」と、4人から驚きの悲鳴があがる。
この町は名寄市から直線距離にしても、400㌔以上も離れたところに位置していた。
ここで、第2夜が終わる。


第1夜、2夜と、ここまではいたって普通の水曜どうでしょうだ。ここで覚えていてほしいのは、4人はほとんど寝ていないということだ。番組が始まってまだ一夜しか明けていないが、眠らずにいるというのは一夜だけでもキツイ。その証拠に、名寄市に着いた4人の雰囲気から伝わってくるのは「寝たい」という3文字のみ。まあ、これもこれでいつもの水曜どうでしょうだ。
しかし、第3夜に入ってすこしすると、4人のあいだに不穏な空気が漂いはじめる。



(後編へつづく)

I want to 初夏!


今日は最高にいい天気だった。空には雲ひとつなく、涼しげに流れる清らかな小川のように澄んだ青色が広がっていた。中天にさしかかった太陽の光を遮るものはなにもなく、どこに目を向けても眩しかった。澄んだ青空を背景に建ち並ぶビルも、車も歩行者もまばらなアスファルトも、陸橋のフェンスも、すごいスピードで通過していく快速の電車も、少年の被る赤い帽子も、新緑に萌える木々も、花壇に咲く花も、少女の着ている白のワンピースも、電信柱も、看板も、信号機も、なにもかもが眩しい陽の光に包まれて鮮明な色と輪郭で縁どられていた。風が強かったけれど、歩くとすこし汗ばんでくる今日の気温にはむしろ心地よかった。生ぬるいけれど、爽やかな風だった。
絶好のお出かけ日和だ。
駅前はGWだからか、閑散としていて静かだった。それが僕の心を妙にウキウキさせた。このままバイトへは行かずに、電車に乗ってどこか大きな公園にでも行ってしまおうかという誘惑がすこし向こうのほうから手招きしていた。けれどすんでのところで踏みとどまってしまった。つい先日、風邪をひいてバイトを休んでいなければ、きっと迷わずにそうしていたのに。理性のバカ。こういうときに休めないで、いったいなんのためのフリーターなのだろうか。
それにしても、最高にいい天気だった。絶好のお出かけ日和でもあり、死ぬには最高の日だとも思った。生命が躍動しはじめる季節に、人知れずただ穏やかに死ねたらどんなに気持ちがいいだろう。どうせ死ぬなら初夏がいい。季節に不似合いな死。でもやっぱり冬に死ぬよりは断然いいだろう。殺伐とした空気のなかで震えて死ぬ季節より、春ののんびりした雰囲気をひきづったまま、生命が一番やかましく躍り狂う夏の兆しをぼんやりと感じられる初夏という季節に死ねたら。でもそれは、僕の生まれた日がこの季節と重なっているからなのだろうか。
人知れずに死ぬことができたら。きっとそれは死んだことにならない。僕の死を知らないみんなのなかで僕はまだこの世のどこかで生きているということになり、ふとした瞬間に思い出すかもしれない僕のことも、それは死者に対して抱く変に整理された記憶とは違い、僕が生きている前提で思い出される生々しい記憶なのだと思う。それはもう、僕にとっては死んでいながらも生きているってこととほぼ同じだ。そんなロマンチックでリアリティのある現象って、ほかにあるだろうか?
けっこうあったりするんだなこれが。
べつに僕は死にたいわけではない。むしろ人一倍死ぬのが怖い。夜眠れなくなるほど怖いときもある。でも死ぬ。ひとはいつか必ず死ぬんだ。そんな当たり前のことを当たり前に思えない人がこの世には信じられないほど多すぎる。だから、僕は死にたいわけではない。どうせ死ぬなら、死ななければいけないなら初夏がいい。今日みたいな最高にいい天気な日を命日にしたいだけ。



生まれたばかりでつるりと艶のある先までピンと張った葉の葉脈を透かしながらこぼれ落ちてくる木漏れ日を浴びながら、ゆっくりとだらだら散歩をしたい。子供たちの戯れる声を聞きながら、恋人たちの秘密のささやき声に耳をそばたてながら、ベンチに座り、湖面をキラキラと踊る光の粒を眺めて、よく冷えたオレンジジュースを飲んでいたい。過去にあったさまざまな記憶を掘り返して、笑ったり泣いたりしたことを思い起こしながら、漠然とした未来にも目を向けつつ、ずっと考えていること、死ぬこととか、生きることとか、愛とか、信仰とか、悪とか、正義とか、欲望とか、友情とか、世界のこととかを考えながら、なにかおいしいものを食べて、お腹を満足するまで満たしたい。
もっと生きていたい。もっと生きて、まだまだこの世界の美しさを噛みしめていたい。

風邪ひいた。

とにかくなにか書きたいので書く。書きたい。なんでもいいから内容を気にせずに文章を構成していきたい。ここに書く文章のほとんどは推敲したことないけど、今回はそんななけなしの推敲も一切しない。衝動、なんて格好いいものではなく、行き当たりばったりでただ自分の欲求をひたすら満たしていこう。



近況報告。風邪をひいた。そしてこじらせた。喉が痛い。高熱もでた。しかもなぜか歯茎の奥のほうが腫れて、ものが噛めない状態なので、まともな食事ができず、体力がどんどん削られていく。バイトを二日休んだ。なのに治る気配がまったくない。後天的に白血球が少ない体質なので、常人より治癒が遅いのは分かっているけれど、自分の体の弱さにはイライラする。あまりにも治りが遅くてイライラしてものに八つ当たりしたら、鏡が割れた。さらにイライラした。泣きたくなった。情けなくなった。はやく健康になりたい。




喉が痛い。他のことについて書こうとしたら喉が痛くてつい喉が痛いと書いてしまった。でも本当に痛い。惨めだ。これでまた痩せるんだろう。骨と皮だけになってしまうんだ。この風邪が治ったら、体力をつけるためにすこしでもいいから走ろう。筋トレもしよう。鶏のささみを食べよう。プロテインを飲もう。一生健康でいよう。もう病気になんてなりたくない。なんだよこの苦しみ。風邪ごときでなんでこんな苦しまなきゃいけないんだ。お腹すいてるのになんでなにも食べられないんだ。ステーキ食べたい。トンカツ食べたい。唐揚げ食べたい。肉、肉肉、肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉!!!肉食べたい!!!もうウィダインゼリーは飽きた!!ていうかなんだよ歯茎の奥のほうが腫れるって。おかしいでしょ。これたぶん風邪と関係なさそうなのが不快なんだ。きっと高熱がでて一番苦しいときに食べたソイジョイが原因だ。チョコアーモンド味を食べたら、アーモンドが思いの外尖っていて、一口かじっては咀嚼するたびに奥のほうの歯茎になんども突き刺さった。で、次の日起きたら腫れていた。不運。なんて不運だ。なんで僕はチョコアーモンド味なんてものを選んでしまったんだろうか。悔やんでも悔やみきれない。あー唾を飲み込むたびに喉が痛い。でも喉が痛いって書くのにもいい加減飽きてきた。ウィダインゼリーと同じくらい飽きてきた。からやめる。




かといって他のことを書こうと思っても、やはりこんなふうに杜撰な書き方はしたくないものばかりだ。ちゃんと構成を考えてじっくりと書きたい。練習も兼ねて。だからもう今回は風邪のことだけでいいし、それ以外のことはこのクソ忌々しい風邪が治ってから書くことにしよう。そうしよう。このまま死ななければ。大袈裟だと思うだろうが、本当に辛いのだ。愚痴らなければやっていけないのだ。


もう疲れたので、終わる。

料理バカと呼ばないで

先日、バイト中に店長と雑談をしていたところ、会話の流れで僕が昨日晩ごはんにパスタをつくったという話題になった。
料理をまったくせず、三食すべてをカップ麺か外食で済ます関西人の店長は、
「パスタなんて作るのか。すごいな~」
と妙に感心しているのがおかしくて、僕はパスタという食べ物がどれだけ簡単に作れるかを説明しようとした。
「あんなのマジで簡単ですよ。麺を茹でてるあいだにソースを作っとけばいいんですから。一番簡単なのはまずにんにくを…」
意気揚々とペペロンチーノの料理手順を喋りだそうとしたとき、不審そうな顔をした店長が遮った。
「ソース…?お前、ソースを一から作るんか?」
「え?あ、はい、まあ…そうですね」
「ソースなんて、わざわざ作らんでもスーパーで売ってるやん。」
「そうですけど、オイルベースのだったら作るの簡単だし、レトルトよりも安上がりですよ」
すると、店長はにやりと笑って
「お前は料理バカやな」
と言った。
……料理バカ?
予想だにしていなかった言葉に、僕は一瞬固まった。
店長はたぶん、半分皮肉でそう言ったのだろう。スーパーでレトルトのソースを買えば楽なのに、それをわざわざ作るなんて物好きなヤツだなという意味をこめて、料理バカと僕にそう言ったのだと思う。しかし、軽い冗談で言われたにしろ、僕にはやはり、料理バカという響きが自分の境遇にとって一番おこがましい、むしろ畏れ多い言葉に聞こえた。



僕は2年間ほど、ホテルで調理師として働いていた経歴がある。
そのホテルには和食、イタリアン、中華と3つの食事処があった。僕の働いていたイタリアンは、宿泊施設からすこし離れた場所にあったので、席数もそれほど多くなく、形態としてはレストランに近かった。シーフードイタリアンを謳っていただけに、客席からはすぐそばにあるヨットの停泊した船着き場が見渡せ、遠くには海と空の境界が曖昧にまじる水平線が広がっていた。
僕は前菜場と盛りつけを任されていた。
朝、8時か9時に出勤し(もうどっちか忘れてしまった)、仕込みをはじめる。11時くらいに一旦中断し、まかないのパスタを食べて、すこし休憩したあと、また各々の作業場に戻るころ、ランチがはじまる。
お客さんが来ると、僕はすぐさま前菜の盛りつけをする。ランチもディナーもコースだったので、前菜がでなければ次の料理も出せないし、前菜のでる時間が遅れれば遅れるほど、その分ほかの料理のだすタイミングも滞ってしまう。前菜を出し終わってしばらくすると、今度はパスタ場から渡されたパスタの盛りつけをする。2、3人前ならともかく、それ以上になるとフライパンの重量も加わりけっこう重たい。それぞれのお皿に均等に分けていくのにもコツがいる。単に分けるだけでなく、当然見た目もきちんと綺麗に盛り付けなければいけなかった。コースによってはセコンド(肉料理、魚料理など)があり、その盛り付けも担当した。盛りつけが終わると、使い終わったフライパンや加熱用の皿などを洗い、乾いたら元のところへ戻しにいく。これらの作業をこなしつつ、ディナーの仕込みも同時平行でしなければいけなかった。暇な日ならともかく、忙しいと仕込みまで手が回らず、ランチが終わりみんながディナーまでの時間を休憩に使うなか、ひとりキッチンに居残ってせっせっと仕込みをすることも少なくなかった。
ディナーでは仕込みをしないかわりに、盛り付けの作業がランチとは比較にならないほど複雑になり、客数も段違いに増えるので、気を緩めるヒマなどなかった。ディナーが終わるとゴミを焼却炉へ持っていき、キッチンの床やコンロなどを清掃して、それからみんなで軽トラに乗り込んで寮に帰っていくのだが、ぺーぺーである僕はこれで終わらない。どう考えても明日できそうもない仕込みをするために、またキッチンへと舞い戻っていく。作業が終わりホッと一息ついて時計を見ると、いつも0時をまわっていた。外へ出ると、あたりは静かで、さざ波が規則正しくヨットをちゃぷちゃぷと揺らす音しかしない。おだやかな海が月に照らされ、水面にまっすぐな光の道をつくっていた。そんな夜の海を横一直線に貫くようにして、高台にある小さな灯台からは、緑と赤のランプが交互に水平線の向こうへと光の指針を投げかけている。
いつもの帰り道に見るこの光景を、僕は眠い目をこすりながら慰められるような気持ちで眺めていた。



なによりも僕を憂鬱にさせたのは、ディナーの前に食べるまかないを担当することだった。これは料理長、副料理長以外の者がそれぞれ交代で月に5回ほど任せられる仕事だった。
これが本当に大変だった。なにせ、ホール、キッチンの人間あわせて約10名分のまかないを数時間で作らなければいけないからだ。食材を切るだけでもひと苦労だった。たとえば天津飯を作るとなると、ご飯を包む卵を10回焼かなければいけない。餃子となると、ひとり8個だとしても、ぜんぶで80個包まなければいけなかった。まかないは最低でも主菜、副菜、汁物をつくらなければならず、当然おいしくなければいけなかった。料理長と副料理長も食べるのだから失敗は許されない。初めてつくる料理でも確実においしくつくる。その緊張感たるや、ストレスで胃に穴が開きそうだった。もしかしたらちょっとくらいは開いていたかもしれない。
いちど、僕がまかないでカレーを作ったとき、お米がやわらかいという理由で顔に水をぶっかけられたことがある。しかもそれ、僕が炊いたのではなく同期がよかれと思い炊いてくれたお米だったのだ。冤罪でコックコートまで水浸しになった僕は、ディナーが始まる前に外へ出てすぐに目についた発泡スチロールをボコボコに蹴り飛ばして行き場のない怒りをとりあえず発散させた。
しかしそのおかげで、僕の料理スキルは飛躍的にあがった。大抵のものはレシピを見ないでも作れるようになった。といってもそれはやはり平均的な主婦と同じくらいの技術で、内心僕はじぶんの才能のなさに焦っていた。他の人間が3回やればのみこめることを、僕は10回やらなければ追いつけなかった。地力が違いすぎる。悩んでいた。それに疲れてもいた。思考は疲労した身体に引きずられるようにしてどんどんネガティブになっていった。それに、今までじぶんが大切としてきたこと、ずっと考えてきたことが考えられず、絶えずなにかがこの手からこぼれおちていってしまってるような気がしていた。




ある日、たしか僕がなにか業務上の失敗をやらかして、それに対してたしなめる程度に注意をした関西人の副料理長が最後にこう言った。

「お前もこの道でずっと食べていこう思うんなら、もうちょっとしっかりせえよ」

この道でずっと食べていく。僕は頭のなかで副料理長の言葉を反芻し、その意味を考えた。
すると、目の前が真っ暗になった。あのとき感じた圧倒的な恐怖は今でも鮮明に思い出せる。この道でずっと食べていくということは、この道でずっと生きていくということだ。この先ずっと、死ぬまで料理人として生きていく。僕はそんな自身の姿を想像することができなかった。5年後、10年後、20年、30年……真っ暗だった。なにひとつ見えなかった。一筋の希望さえもなかった。それは違うところにあったのだ。



そして僕は料理人をやめた。諦めるよりほかなかった。料理自体は嫌いではない。しかしそれ以来、僕は料理に対して一種のコンプレックスを感じている。じぶんの作った料理を誰かが「おいしい」と言ってくれるたび、嬉しいと同時にどこか後ろめたさを感じる。「料理得意だよね」と言われるたび、違和感が胸をざわつかせる。そんなことない、と誰かの声が僕を必ずたしなめる。


店長に料理バカと言われたとき、同じ関西人である副料理長の言葉を連想したのは偶然ではなかった。料理バカだなんて、たとえ冗談でも僕にはふさわしくない。喉からでかかったけれど、抑えた。相手にとってこれは冗談なんだから、明日になったら忘れ去られるなんの意味もない会話のひとつなんだから、と言い聞かせて。


最近、料理のレパートリーを増やそうと思い立って、ネットで調べておいしそうなレシピを試している。生業としてではなく生活としての料理では、緊張感がないせいかたまに失敗したりもする。
それでいいと思う一方で、それがなんだか、すこし悲しいときもある。

雨上がりと戯れた日のこと

朝にはもうすでに降っていて、夕方ころになってようやくやんだ雨の余韻がまだあたりをさまよっているらしく、鼻から息を吸うと、空気といっしょに入り込んできた極小の水の粒が鼻腔にひっつく感じがして、それはかすかに甘く、湿っぽいせいか、ひとを意味もなく感傷的にさせる匂いがした。はるか上空から地上へ叩きつけられ、雨音と呼ばれる小気味いい騒音をたてながら 弾けて四散した無数の滴が、今は夜の帳のなかで路面を濡らし、下水道を流れ、やがて海へと至る、雨という名前を失い、水という名前を得た彼らをよそに、道の真ん中にできた水たまりを僕は跨いだ。
アパートへ帰るところだった。くたびれた仕事着のまま、いつもと同じ順路を通り、いつものように急いでいるわけでもないのに革靴の踵をカツカツ威勢よく響かせながら早足で歩いていた。
時刻も遅いせいかまばらに店のシャッターが降りている商店街を抜けて、陸橋を渡り、もうすぐアパートの近くであるという目印のなだらかな下り坂にさしかかると、その先で、高架線に沿って等間隔で並んでいる外灯に照らされた雨の余韻ーー霧のようにたゆたう水の微粒子が、プラチナのような白っぽい輝きできらめいていた。
霧のように、というか、これは霧と呼ぶべき現象なのだろうか。霧にしては密度が薄い気がする。視界を遮るほどではなく、かといって先を見通すのにけっして邪魔じゃないわけでもなく、海中に漂うプランクトンのように目前に迫るときになってはじめて姿をあらわす、微細でかよわいこの自然現象に、果たして名前はあるのだろうか。雨から生まれたプラチナ色のプランクトンは、春の夜の生ぬるい大気のなかをゆったりと泳いでいるようにも、あってないような微風にただ身を任せているだけのようにも見えて、その様子はどこか現実ばなれしていたし、なぜか笑うことしかできない滑稽な悲しさがあった。でもその悲しさはもしかしたら、ただ僕が意味もなく感傷的になっているせいなのかもしれなかった。しかし、もしそうだとしても、感傷的になった理由は鼻腔にひっついてきた彼らの匂いに原因があるので、やはりさっき感じた悲しさは、彼らとなにかしらの繋がりがあるということになるのだろう。そしてそれはあくまで主観的な、自分自身でさえ窺いしれない僕の記憶の奥底で繋がっているなにかとなにかのことなんだろう。
水の粒が漂う夜道を僕は突っ切っていく。肌をさらしている部分ーー頬や手の産毛に、極小の水の粒が付着する、ほとんど錯覚ともいえるような感触がした。このままずっとどこまでも歩いていったら、水の粒はどんどん体にくっつき集まって水滴になり、水滴がしだいに量を増すと僕を包みこみはじめ、やがて小さなプールのような箱形の水の集合体ができあがって、そのなかで僕は溺死する。不本意な自殺。そんな馬鹿な。けれどやはり、体の周囲にまとわりつく水の粒は、湿気と呼んでしまったほうがふさわしいのかもしれないほど、おとなしいとるに足らない存在だった。
意味のない感傷は、意味がないだけにどうすることもできず、なかなか消えてくれなかった。感傷に煽られた焦りだけが増していく。僕は堪えきれず記憶を探る。あてのない旅だった。時間軸の風化した断片的な映像が次々にフラッシュバックして、さまざまな感情がよみがえり、けれどそのさまざまな感情は遠い国の喧騒のようで、かつてはじぶんのものだったはずなのに、今ではひどく他人事に思えた。身に迫る謎の焦燥感だけが、現在の僕だけが持つ唯一の感情であり、リアルだった。僕の内面に呼応するように歩調がひとりでに速くなる。目の前を歩いていたカップルを追い越し、革靴はカツカツと威勢よく濡れたアスファルトを踏み鳴らす。カップルは楽しそうにほほえみながら手を繋ぎ、なにかふたりだけにしか分からない暗号のような会話をしていた。「好き」だとか「愛してる」というわかりやすい言葉ではなく、限りなく遠い地点から愛を確かめ合い育んでいる彼らの他愛のない会話は、ときとして亀裂や最期を生むきっかけにもなることを、ふたりは知っているのだろうか?僕はもう一度、鼻から息を吸う。かすかに甘く、湿っぽい雨上がりの匂いが全身に行き渡り、五感を弛緩させる一種の陶酔感で体が溶けそうになる。けっきょく、この匂いが好きなんだと、僕は思い、笑った。笑ったあとで、誰かに見られてはいないかとあたりを見回したけれど、誰もいなかった。追い越したカップルもどこかの道を曲がったらしい。
安心して、口笛でも吹いてやろうかと唇を尖らしたけれど、そういえば吹けないことを思い出して、かわりに鼻唄でガマンした。



いつの間にかアパートはもうすぐそこにあった。僕は考えるのをやめて、コンビニに寄り、お菓子を大量に買って、パンパンに膨らんだビニール袋を左手に提げたまま、埃っぽい部屋へと帰っていった。

ブログはじめました。


何十万という人びとが、あるちっぽけな場所に寄り集まって、自分たちがひしめきあっている土地を醜いものにしようとどんなに骨を折ってみても、その土地に何ひとつ育たぬようにとどんな石を敷きつめてみても、芽をふく草をどんなに摘みとってみても、石炭や石油の煙でどんなにそれをいぶしてみても、いや、どんなに木の枝を払って獣や小鳥たちを追い払ってみてもーー春は都会のなかでさえやっぱり春であった。




……ということで、トルストイ「復活」の冒頭の引用からはじめてみました。
もうすっかり春めいてきましたね。
と書くつもりだったのに、今日は雨が降っているせいかすごく寒い。
まあ、気温のちょっとした変動や雨が頻繁に降るのも季節の変わり目にはよくあることなので、大きな流れで見ればやっぱり、春めいてきているといえば春めいてきているんでしょう。
駅前のバスロータリーに1本だけ生えている桜も花をすでに満開にさせていて、すごく綺麗だった。けれどこの桜は一般的な薄いピンクではなくて、さくらでんぶのような濃いピンクをしているので、もしかしたら梅か、それとも春の気配をいち早く察知した駅員が誰もいない時間を見計らって、厚紙でつくった花びらをせっせと枝のまわりに貼っていったのかもしれない。と思うほど、絵に描いたような綺麗な咲き方をしていた。



ここには、とりあえず、小説や映画の感想、日々の出来事とフィクションなんかをなんとなく不定期で書いていくつもりです。意外と寂しがり屋なので、感想も気軽にしてやってください。よろしくどうぞ。
では、また。