ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいな人生を

あまりに個人的すぎて、下痢のような文章を垂れ流します。

日々なんとなく

 

 

台風一過の朝、出勤していつものように会社の階段をのぼっていたら唐突に秋の匂いがして、なにかほかの感情が生まれるよりもまずいきなりすぎて面食らった。

 

 

 

 

そのときは9月に入って間もなかった。

例年どおりならまだ残暑が厳しい時期で、カレンダーの絵や季節限定の新商品のパッケージやファッション誌の表紙を飾るモデルの服装はすでに秋の装いではあるけれど、それはあくまでも先取りという形で世に出回っているわけで、本当ならまだ秋なんて気配すら感じないほど遠い存在のはずだった。

 

 

 

 

秋がはじまったばかりのときの匂いは、これといった明確なものがあるわけではない。それはたとえば花の香りだったり、前を歩く人の香水だったり、焼きたてのパンの匂いだったりする。少し冷たい風に混じる匂いと空気の境目がくっきりと分かれているような錯覚を秋のはじまりは感じさせる。爽やかさとは違う、湿気のなくなった乾いた空気のなかで日常の匂いが鮮明な輪郭を持つとき、季節が夏から秋へと移りつつあることを僕は意識する。

 

 

 

 

 

 

 どうでもいい話がしたい。ここじゃないどこかの話とか。愚痴でもなく、自慢でもなく、噂話でもない。過去として記憶に残るわけでもなく、未来に明るい光が射すわけでもない、どうでもいい話。宇宙のはじまりとか、死んだらどうなるだとか。昨日も明日も忘れて、ただ喋る、頷く、笑う。どうでもいい話。

 

 

 

 

 

 

 「ねえ、運命って信じる?」

「それ、前にも誰かに聞かれた」

「誰に?」

「さあ、誰だったっけ」

 

 

紫陽花の葉にカタツムリはいない

 

 

 

気づけばもう6月。暖かさが暑さに変わり、言うほどにはそんなに降らない梅雨が始まろうとしている。梅雨は別に好きじゃないし、嫌いでもない。紫陽花は少し好きだ。点描画っぽくて、雨の季節に咲くのに陽の光が似合うところがいい。

 

 

 

 

自分の部屋の網戸が破けている。しばらく誰も使っていなかったからずいぶんと放ったらかしにされていた。長い年月を経た網戸の網はプラスチックの柔軟性を失っていて軽く触っただけで薄いせんべいみたいにバリボリと砕け落ちてしまう。

危険だ。暑くなって虫が多くなるこの季節、網戸に穴が開いているということはすなわち死を意味する。蚊はもちろん、いったいどんな奴が侵入してくるかわからない。ハエ、ムカデ、ゴキブリ、そしてよくわかんないけど足がいっぱいあるヤツetc……とりあえず虫除けベイプは設置してある。これでひとまずは安心だ。

「いや、そういうことじゃなくて網戸を交換しろよ」と思ったそこのあなた、正論だ。正論すぎてぐうの音もでない。「冷房でもいいんじゃない?」と思った優しい君、確かにそうだけど僕は冷房よりも自然の風のほうが好きなのだ。カーテンを膨らませては揺らす、ちょっと生温いけど汗をかいた肌には涼しく感じるあの夏の風が。さらに言えば、夜、昼間の蒸し暑さをかすかに引きずった空気のなかを散歩するのが好きだ。それは都会でも田舎でも変わらない。

 

 

 

 

 

 

 4月から2ヶ月が経った。

自分にとって4月になにか節目となるような出来事があったわけではないけれど、3月から働き始めた会社へ向かう通勤途中の景色が4月から一変したのをよく覚えている。

 それまで春休みだった学生の姿を大勢見るようになった。大人に先導されて横断歩道を渡る小学生の行列や、下り坂をブレーキなしでかっ飛ばしていくボウズの中学生、朝からイチャイチャしながら登校している高校生のカップルなど、朝の歩道は学生であふれていた。

 

 

4月のはじめ、彼らは俯きながら歩いていた。サイズの合っていないブカブカの制服に身を包んで、真っ白な運動靴の履き心地が心許ないのか、覚えたての通学路を一歩ずつ目で確認しながら辿っていく。ひとりが顔を上げずに隣を歩く同級生に話しかける。「部活何にするか決めた?」「陸上部にするかもしれない」「◯◯、バスケ部じゃなかったっけ?」「そのつもりだったけど、部活紹介のときカッコよかったから」

たぶんこんな会話をしているであろう彼らの顔は曇っている。僕らが忘れた、あるいは通り過ぎた悩みや不安を抱えて、同じような境遇にいる者がすぐ近くにいることにも気がつかず、自分の真っ白な運動靴と舗道のかすれた白線が時折重なるのだけをただ見つめている。この悩みや不安が永遠に続くものだと、こんな気持ちは誰にも理解されないんだという顔をして。そんな彼らは、ある意味では正しいし、ある意味では間違っているのだと、大人になったあなたならきっとそう思うだろう。

 

 

 6月。彼らはもう足元を見つめていなかった。真っ白だった運動靴はすこし茶色がかっている。隣にいる友達とふざけあい、小突きあって、大きな口を開けて笑っていた。

そんな姿を僕は車の窓が見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「もし死ぬ前に、もう1回だけあの頃に戻れるとしたらどうする?やっぱり戻る?」

「俺はいやだなあ」

「え?なんで?」

「死ねなくなるもん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の出来事。

 

 

 

 

また風邪をひいた。

1回目は今月のはじめころ、友人宅で映画鑑賞をしたすぐ後のことだった。連日の夜更かしが原因だったのだと思う。喉の違和感が痛みに変わり、あぁこれはマズイやつだと思う間もなく悪化。母の小言を背中に聞きながら病院へ行った。

幸い、熱はなく喉の痛みと悪寒だけで済み、薬を飲んだらどんどん良くなっていった。

それから、大阪にいる友人が地元に帰ってきたので遊んで、そのときはまだほぼ治ったくらいでまだ喉に異物感はあったものの、カラオケで3時間以上歌い続けて、新たな門出に立つ友人のために我が身を省みず弱った喉を酷使した。

 

その結果、ぶりかえした。

 

いや、これが本当に原因なのかはわからないけど、再び喉に痛みが戻り、体が寒くてしょうがなかった。1回目ほどひどくはなかったとはいえ、1ヶ月のほとんどを体調不良で過ごすと心が暗くなる。慰めてくれのは、夜、窓を静かに叩く雨の音だった。そういうところは、今も昔も変わらない。

 

 

 

 

 

「カルテット」が面白かった。過去形なのは今週でもう終わってしまったからで、テレビドラマを毎週楽しみにしながら観るのはすごく久しぶりのことだったので、すこし寂しい。

友人のひとりもカルテットを観ていて、おいしいお好み焼きをつつきながらドラマについて会話が弾んだ。そのなかで、アリスという登場人物の話題になった。

アリスはカルテットのなかでも群を抜いて異質で強烈な人物だ。

笑っていても目が笑っていないのが特徴で、人付き合いは打算のみで動き、自分の利益になるならどんなことも躊躇なく行うというとんでもないサイコパス野郎なのだが、それを吉岡里帆が演じていて、2話か3話あたりで満島ひかり演じるすずめちゃんに男の口説き方を指南するシーンは、あまりにふたりが綺麗でまぶしくて、なにか見てはいけないようなものを見ている気分になった。家族とテレビを観ていたら過激なラブシーンが流れだしたときのような、変にそわそわするあの感じ。端的にいうと鼻血が出そうだった。その後、すずめちゃんの弱みを知ったアリスはそれにつけこんで恐喝まがいのことをするのだけれど。

それで、そのアリスの話になったとき、当然あの女まじでヤバい奴だよな〜という感じで始まったのだけれど、すると友人が苦笑しながら「でも、俺ちょっといいなあって思っちゃったんだよねえ」と言うので、僕は思わず「まだ懲りないの!?」と叫んでしまった。

 彼の恋愛遍歴を知っている者なら、誰だって叫んでしまうだろう。そして、それがただの冗談とか、キャラとして好きだけど実際に付き合うとしたら無理という生半可な好意とかではなくて、たとえ吉岡里帆ほどのビジュアルではなくても、そういう、本当の意味で誰のことも好きならないような女のことを本気で好きになってしまうのも、彼の恋愛遍歴を知っている者なら、それが正直に感じた言葉であるかが分かってしまう。

 その言葉を聞いて、僕はすごく心配になった。

率直に言って、彼には幸せになってほしい。彼の思う幸福を手にしてほしいと、人付き合いが悪く基本的に人を好きになれない僕が、この人は幸せになってほしいと恥ずかしげもなく願える数少ない友人のひとりが彼だ。

「ああいう子なんだけど、俺に対しては一途な子がいい」とロマンチストな彼は言った。

「そんな子はいない」と僕は一蹴した。

したにはしたけど、できることならそんな子がいてくれたらいい、と思ってしまう僕も同じくらい、ロマンチストなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

ラ・ラ・ランド」を観た。

観た2日後、もういちど観に行った。

また観るつもりだ。

感想は書きたくない。 

 

 

 

 

 

大阪の友人が夢を諦めた。

 僕はまだ諦めない。

これは意地なのだろうか?

とりあえず、やっていくしかない。

 

 

 

 

 

 

新生活が始まった。

 

 

覚え書。

 

 

 

 

 

メモ。

 

 

いつかの幸福が現在を苦しめるなんてこと知っていたらきっともっと楽なほうを選んでた。なくなる幸福なんていらなかった。幻想に生きてずっと憧れを抱いたまま死んでいけばよかった。死んでいきたかった。もっとちゃんと嘘をついてほしかった。と友人が言う。巨きな栗の樹の下で。手をつなぐふり。キスをせがむふり。大好きなふり。誰も真実になんて興味ない。誰かではなく、あなたの最愛のひとになりたかった。「あゝ、お前はいったいなにをしてきたのだ」と、吹き来る風が私に言う。汚れちまった悲しみに。ゆやーんゆよーん。錆びたブランコが揺れる音。西陽の差し込む時刻にいつも死にたくなるのはなぜ?未来とは希望のことだ。希望とはなにかを愛することだ。なにかを愛することは、なにかを愛せることは幸福だ。幸せになりたかった。ただ幸せになりたいだけだった。あなたとわたし。巨きな栗の樹の下で。と、友人が言う。あの日僕は小さなサインを見逃し続けた。夢も希望も消え失せた。うたかたの日々。虎になって月に吠える。青い車に乗って荒野を行く。ありきたりな景色が待っているとしても。迎えてくれるひとがそこにいなくても。あの街がまるごと幻だったとしても。いつかあのときは悲惨だったと笑いあえるように。と友人が言う。たまには未来の話をしよう。タイムマシンに酔って。明るい未来の話。まだ誰のものでもない僕らだけの未来。未来とは希望のことだ。たとえそれが人生のつく嘘や勘違いだったとしても。あるだけマシさ。明けない夜があることを願って。バイバイ。さよなら。またね。

 

 

 

 

 

 

 

「たとえば、そうだな、君は数年前の自分が今の自分とまったく同じ人間だと思うかい?そういうこと考えたことある?ないなら考えてみて。あるならそのとき出した答えを教えてほしい。ぼく?ぼくはどう思うかって?それがわからないから君に聞いてるんだ。細胞はある一定の周期で完全に入れ替わるというけど、最近の科学で細胞のひとつひとつにそれまでの記憶がインプットされていることがわかったらしいし、かといってじゃあ記憶がその人をその人たらしめている決定的な要因かと言われれば疑問だし、たとえば外見は年を取れば当然変わっていくよね。皺が増えたり、頬がたるんだり、ハゲたり、痩せたり逆に太ったり。でもそれは身体の変化であって、自分が自分でなくなったことにはならないような気がするんだ。ただね、時間の連続性ってやつのせいで僕らは生まれてから死ぬまでずっと存在している気になっているけど、本当は僕らは過去の僕らを絶えず殺しながら存在しているんじゃないかってときどき思うんだ。殺すなんて物騒な言葉を使っちゃったけど、どちらかといえば書き換えるって感じかな。更新する、過去の自分に今の自分を上書き保存するって比喩が一番しっくりくるかも。上書き保存だなんて表現いかにも現代人っぽいよね。過去の自分に今の自分をセーブしていく。保存先は変わらないけどデータはその都度減ったり増えたりして。だとしたら数年前の自分はまったく同じ人間だと言えるだろうか?昔のデータを引き継いでいるとはいえ、容量や内容が少しだとしても確実に変わってはいるのに?いや、わかってるよ。これは比喩だ。比喩だからこそこれはぼくが求める答えにはならないし、そもそもデータなんて言葉は曖昧すぎる。それにこの考えにはひとつ問題がある。魂だ。この考えは唯物論的すぎて魂の概念が欠けてる。魂なんて今のご時世に前時代的かもしれないね。人類が創り出した最もロマン溢れるフィクションなのかもしれない。でもこいつは無視できないよ。理性とか感情とかの次元ではなくて、誰かが死んだとき、身体はそこにあるのに、ただ眠っているようにも見えるのに、そこにあったなにかがたしかに失われた感覚というものを、ぼくは無視できないんだ。もし魂があるんだとしたら、魂がぼくをぼくたらしめているのなら。でも、これもひとつの比喩にすぎないのかもしれないね…やっぱりぼくにはわからないよ。それで、君はなにか答えはでた?」

 

 

 

 

 

 

 

 

複製された男VS複製されたい男

 

 

年が明けて早々、友人の家でちょっとした映画鑑賞会を開いた。開いたといっても成り行きでそうなったというか、「映画が観たい」と僕が言い出し、早速その日のうちにゲオで借りた映画をふたつ観た。

 年が明けて間もない日からホラー映画を観るのもどうなのかと思ったりもしたけれど、誰かと一緒じゃないとホラー映画は怖くて観られない人間なので、こういう機会がないと観られない映画を選ぶとなるとやはり僕としてはホラー映画一択になるのだった。

ひとつめはホラー映画(名前は忘れた)で、ふたつめは「インターステラー」だった。こちらは友人が前々から観たいと言っていたものだったので僕は何度も観ていたけど何度観ても面白いからそれになった。やはり面白かった。

それで先々々週の土曜日、この即席映画鑑賞会を気に入った友人のひとりが「この会を定期的にやろう」と提案したのがきっかけで、その日に第2回目が開かれることとなった。

 

 

 

 

第2回目(?)に選んだ映画が「複製された男」。ノーベル賞作家であるジョゼ・サラマーゴの原作、複製された男を映像化したもの。

ある日、知人の薦めで観た映画の端役に自分とそっくりな男がいるのを発見して、その男と会うためにさまざまな手を尽くし対面を果たすのだが、そのせいで主人公は思わぬ事態に巻き込まれる。

というようなあらすじに興味を持った僕らは借りたのだけれど、はじまって数分で、

「あ、これみんなで観るような映画じゃないわ…」ということに気がついた。

たぶんあそこにいた誰もが「思ってたのと違う…」と感じていたはずだ。誰かがそう口にしたわけではないけれど、あの空気感がすべてを物語っていた。実際僕はそう思っていた。たとえばトータルリコールとかブレードランナーのような『なにも考えずフランクに観れるような映画』だと勝手に誤解していたのだ。「複製された男」はそれらとはまた違うタイプのものだった。

まず、訳がわからなかった。物語らしい物語はあるものの一見無意味な映像がいくつも挿入されていて、進むにつれて物語は破綻を起こしつつ、最後までこの映画に隠されたいくつもの謎がちゃんと明らかにされることはなかった。

観終わったあと、それぞれの意見を出しあって一応それなりの解釈をしてなんとなく話は終わったけれど、やはりどこか消化不良というか、もっとちゃんとした考察をしてみるべきだと個人的に思ったので、ここにいくつかの謎に対する自分なりの答えを書いてみることにした。

ただ、この映画は観ていない人に説明するのはものすごく難しいので、ここに書く考察も「複製された男」を観た人でないと分からないという前提で話を進めていこうと思う。

まあ、友人以外がこのブログを見ているとは思えないけれど、念のため。

 

 

 

 

 まずは順を追って説明していく。

最初に蜘蛛の謎。冒頭と中盤とラストに出てくるこの蜘蛛が一体なんなのか。これがわからないとこの映画の意図するものがまったくわからない。これはネットで調べるとすぐにでてくる、 心理学でいうところの「縛りつける女性」、「束縛する母親」という意味のメタファーで間違いないだろう。

次に、なぜ同じ人間がふたりいるのかという謎。たぶん多くのひとがここで頭を悩まし、答えがわからずに考えるのをやめてしまうはずだ。主人公であるアダムとアンソニーはいったいどんな理由であそこまで似ているのか、同一人物なのか、はたまた奇跡レベルの他人の空似なのか、どちらかがクローンなのか、それとも生き別れの双子…?映画を観ているあいだ誰もがずっと気になり、自分なりの解答を用意していたのに最後の最後まで明確な答えがなくて肩透かしを食らったこの謎。

 

僕の出した結論は、そんなことは考えるだけ無駄。

 

 というか、この「複製された男」はそもそもそんなことを観客に考えさせるために作られてはいない。なんでこのふたりがまったく同じなのか。それは同じだからしょうがない。それだけ。ハイ終了。このアダムとアンソニーは「同一人物でもあり、同時にまったく違う存在」くらいに認識できていれば充分なのだ。

暴論に聞こえるかもしれないけれど、この「複製された男」は「なぜ同じ男がふたりいるのか?」ということに焦点を当てていないし、その謎を解明することがこの映画を楽しむことではないからだ。「なぜ同じ男がふたりいるのか」は監督自身もよく分かっていないと思う。

たぶん夢を見ているときと似たような感覚でこのふたりは存在しているのだろう。夢を見ているあいだは、どんな不思議な出来事や現象が起きてもなんの疑問を持たずにすんなりと受け入れてしまう。目が覚めてようやく「変な夢だったな…」と違和感を感じることはできても、夢のなかでは不可解な行動や思考も当たり前のものとして受け入れてしまう。なぜそうなったのかはわからない、でもそれはそうなってしまったのだから仕方がない。理由が分からなくても受け入れるしかないのだ。

それは冒頭にでてくる「カオスとは、未解読の秩序である」という言葉からもわかる。このふたりが同じ人物なのか、それともまったく違う存在なのか、それは未解読の秩序であり、そもそもこの映画自体が因果関係や時間軸の狂った混沌とした世界として出来上がっている。アダムとアンソニーはときに混じり合い、ときに反発しあう。同じ人物のときもあれば、まったく違う存在のときもある。なぜそんなことになるのか?それは今朝見た夢の意味がわからないのと同じように分からないことなのだ。そうなるからそうなった。僕らに分かるのはそのことだけだ。

 

 このふたつを踏まえたうえでこの映画を観ていくと視界がだいぶクリア(?)になる。

冒頭の蜘蛛を潰すシーンは、縛りつける女性からの解放を意味する。つまり妊娠している妻からの逃避。

アダムがアンソニーに会いに行くときホテルの廊下ですれ違った蜘蛛頭の女は、アダムがいずれ束縛する母親に囚われるという兆しというかサインみたいなものだろう。

そして最後のアンソニーの妻が巨大な蜘蛛になるところ、あれは見たまんま、アンソニーの妻=束縛する母親ということ。

アダムはエレベーターで乗り合わせた男の言っていた地下の部屋の鍵を見つけ、ついでに指輪を見つける。そしてアンソニーの妻に「今日はでかけるよ」と告げる。するとどうだろう、あら不思議。話は冒頭のシーンに戻るのだ。

この映画を観終わったあとでは、あのシーンはアダムともアンソニーとも取れてしまう。あの男を引き連れてるのも、アンソニーの場合ならエレベーターで言っていた「連れて行ってくれてありがとうごさいます」という言葉どおりだろうし、アダムの場合は場所がわからないから道案内も兼ねて彼を誘ったということで説明がつく。あのシーンはアンソニーでもあり、アダムでもあるのだ。指輪をはめているのも、アンソニーはもちろんのこと、アダムは鍵といっしょに指輪を見つけなぜかはめている。

つまりこの映画は終わると同時にまた始めに戻るという仕掛けになっている。はじめて観たとき冒頭の人物はアンソニーだったはずが、もう一度観てみるとこれはどちらなのかわからなくなるようになっている。

ラストと冒頭が繋がっていることによって、僕らは最初に観たときと同じ感覚で「複製された男」を観ることはできず、記憶のなかの映画を ひきずりながら、一見無意味に思えたり一面的だった映像や台詞が、最初に観たときとは違う意味や側面を持っていることに気づく。

たとえば、 アダムが恋人と情事をするところ。「この映画を観終わった後」では、あれはアンソニーともとれてしまう。妻が「あの女でしょ」となじる場面はここと繋がる。他にも、アダムにアンソニーの妻が「学校は、どう?」と聞く場面も、一見すると妻が彼の正体に気がついたという解釈もできるし、ただ単にアンソニーに対して質問したようにも見えるのだ。(アンソニーの職業は明らかにされていないから)

 アダムとアンソニーは蜘蛛を潰す儀式のようなものを見ることで束縛する母親から一旦は解放され恋人との情事を楽しむ。けれど結局は妊娠している妻に捕らえられてしまい、恋人は主人公の対極にいるアンソニーとともに事故によって失われる。(もしかしたら脇腹にあった傷はそのときにできたものだろうか?)これで終わりかと思いきや、アダム(アンソニー)は地下の鍵と指輪を手に入れ、また束縛する母親から逃れようとふたたび地下の部屋へ行ってしまう。こうしてアダムとアンソニーは永遠にこの行為を繰り返す。このことをアダム自らマルクスの言葉を引用してこう表現している。「1度目は悲劇で、2度目は茶番劇だ」と。(このあたりの場面でひたすら「繰り返す」ことを暗に強調している)

 今自分の書いてきた文章をあらためて読んでみて、まとめるつもりがさらにこんがらがせただけではないかという気がするのだけれど、まあ、「カオスとは未解読の秩序」なのだから仕方ない。アダムとアンソニーの存在の境が曖昧で、なによりもこの映画に隠された法則そのものが、僕らがふだん使っている日常の尺度では測れないのだ。

 

映画にはそれこそいろんなタイプのものがある。この世にある映画の大半は、観客をちゃんと誘導して、その通りになぞっていけばストーリーを楽しめるようにできている。不思議な現象が起きたとしても、そこにはちゃんとした因果関係があり、最後には必ず答えが用意されている。原因があれば必ず結果にたどり着く。なかには曖昧なまま終わるものもあるけれど、それは後味の悪さや余韻を残す「効果」を狙っているのであり、それはいってしまえば「映画の定石」として僕らはすんなりと理解できてしまう。

「複製された男」はそういった映画とはすこし違う。この映画は観客を誘導する気などさらさらない。なにも考えずにこの映画を観ていたらきっとものすごくつまらないものになるだろう。

この映画を楽しむためには、僕らはのめりこまなければいけない。

この場面はいったいなんなのか、どこに繋がるのか、登場人物たちの言葉を聞き漏らさないように耳をそばだて、どのシーンも見逃さないように目をこじあけなければいけない。僕らは自分たちでこの映画に隠された法則を読み解かなければいけないのだ。ふだん僕らの周りにある因果律や常識から一旦離れて、この映画にしかない法則に自分の身体を馴れさせ、その仕掛けに過敏に反応していかなくてはいけない。

 現実からの逸脱。それは大半の映画とはまた違った楽しさを僕らに提供してくれる。

 僕は常日頃、映画を観るという行為は運動と同じものだと思っている。同じ「走る」でも、短距離ランナーと長距離ランナーの筋肉のつき方や鍛え方が違うように、同じ「映画」でも、観るポイントやコツによって、すごく楽しめたり、反対にすごくつまらないものになってしまったりする。

あらゆる映画を楽しむためには、こちらから能動的に映画へ没頭しなければいけないと、最近はよくそう思う。まるで初めて映画を観るときのような、その映画で映画というものを知るという感覚で観る、この映画のことを知りたい!という気持ちで観る。そうすれば自ずと映画を楽しめるのではないだろうか。

 

 

とはいっても、どうしたってすごくつまらない映画というものはやはり存在するから、厄介だなんだよなあ…

 

 

 

先週も映画鑑賞会をやって、そしてまた明日、友人のオススメ映画を観ることになっている。こうやってしばらくは、希望としてはずっと、こんなふうにみんなでワイワイ映画を観ていきたいなあと思ったりしている。

 

 

 

では、また。

 

 

 

 

 

 

琥珀色の街、上海蟹の朝

今日、引越会社からダンボールが届いた。
これで荷造りも本格的にはじめていかなければいけない。不動産屋にはもう手続きを済ませてきたし、バイト先には辞める日を伝えてきたから、あとは水道、電気、ガス会社に電話をして、あと転出届とかか。他のことを考えている暇がないほど、やることはいっぱいある。そのほうが今は助かるのだけど。とにかく今ははやくバイトをやめてひとりになりたい。誰にも会わずにすむようにしたい。





ひっさびさにCDを買った。
なにげなく聴いたSuchmosというバンドが気に入ってほとんど衝動的にAmazonで注文した。三枚買った。アナログ人間なのでAmazonでなにかを買うのは初めてで、その便利さには驚いた。頼んだ2日後には近くのコンビニで受け取れるし、値段も店で買うのとほぼ同じ。これなら本や漫画もAmazonで買えばいいじゃないかと思った。これまでは本屋を応援する、応援したいという気持ちもありわざわざ出かけて買いにいっていたけど、ゴーゴリ事件以来、べつにもう本屋なくてもいいや、というすこし投げやりな気持ちになっている。古本屋がなくなるのは困るけど、メジャーな本しか置いていない本屋へわざわざ行く必要性が僕にはなくなってきている。自分の知らない本と出会う場所でもある本屋としての魅力が最近ではまったく感じられないし、買うものが決まっている場合、いくつもの店を探し回って徒労に終わるくらいならネットで注文したほうが絶対いいはずだ。届くまで2日ほど待たなければいけないけど、本屋で取り寄せる場合は最低でも1週間くらいかかることを考えれば、もう、本屋いらなくね?という気持ちになるのもわかってほしい。だから「イムリ」もAmazonで買った。面白い。スターウォーズみたい。





ジェイン・オースティン原作の高慢と偏見をアレンジ(?)した映画「高慢と偏見とゾンビ」が是非とも観たい。

僕はジェイン・オースティンの小説が大好きだ。
ジェイン・オースティンの小説はぜんぶで6つある。その内の5つを読んでしまい、残るは処女作である「ノーサンガー・アビー」のみ。読んでいないのはもうあとひとつしかないと思うとすこし悲しい。べつに再読すればいい話だけど、まったく未知の世界へ入っていける初読の快感はもう得られないのだから、やはり悲しい。だからわざと「ノーサンガー・アビー」だけ読まずに残してあるのだ。そうすれば、まだ読んでいないオースティン作品があるのだという希望がずっと保てられるから。
登場人物たちを愛情深く辛辣に包み込むあの彼女独特のユーモア、平凡な題材にも関わらずページを手繰るのをやめられなくなる軽妙な語り口。なにを語り、なにを語らないか、どこまでを語り、どこまでを語らないか、その微妙なラインを見極めるセンスがオースティンは神かがっている。18世紀に書かれた小説だから、イギリスの貴族階級という現在ではすこし差別的な思想や風習も多少含まれていて(イギリスではいまでも当たり前なのだろうか?)、時々面喰らうところもあるけど、それでもオースティンの小説は健全な精神に満ちていて、そんじょそこらのミステリー小説よりも刺激的な読書体験ができる。まあ、オースティンの小説は恋愛小説なんだけれどね。そんなのは関係ない。
オースティンの小説でどれがいちばん好きかと聞かれたらものすごく困る。(誰も聞いてくれないけど)
たぶん「高慢と偏見」はいちばん人気があるんじゃないだろうか。主人公のエリザベス・ベネットはその欠点も含めて多くの女性が求める完璧な女性像って感じだし、相手のダーシーもツンデレで金持ちでかっこいいし。「マンスフィールド・パーク」は主人公のファニーがおとなしいせいか、小説としても全体的に淡々としていて、(といってもオースティンにしてはという意味で)物語の面白さとしては他の作品と比べると多少見劣りするものの、オースティンの思想がいちばん全面にでている小説でもあり、含蓄のある文章が随所にでてきて違った意味で面白い。「分別と多感」は性格のまったく違う姉妹が主人公で、このふたりのでこぼこっぷりが魅力的だ。個人的に好きなのは妹マリアンが恋人からの手紙を待っているところに玄関のチャイムが鳴り、郵便配達人だと思って駆けつけたところ、いけ好かない人物の来訪だったのでものすごくキレるところと、姉エリナーとジェニングズ夫人との勘違いだろう。ジェニングズ夫人の印象が最初と最後で変わるのもリアリティがあって好きだ。「エマ」はどこかミステリー小説のような趣がある。それにオースティン持ち前の皮肉がいちばん効いているのもこの小説だろう。こんな賢くて愚かな主人公を魅力的に描けるのもオースティンならではという感じ。ナイトリーがイケメンすぎる。「説得」は一番短いのが難点。でも短いからこそ無駄がないし、最初に読んだオースティン作品なので思い入れがある。また読みたくなってきたな……。やはり一番なんて決められるわけがない。みんな違ってみんないい。それに尽きる。



映画「高慢と偏見とゾンビ」は、そんなオースティンの田園恋愛小説「高慢と偏見」にゾンビ要素を取り入れた映画らしく、ジェイン・オースティンファンからも大変好評らしいのでぜひ映画館で観たいと思っている。
今はオースティンとはだいぶかけ離れたメルヴィル「白鯨」を読んでいる。これものっけからすごく混沌としていて面白い。当分はこれでどうにか生きていけそうだ。



では、また。

「外套」や「鼻」を書いたロシアの小説家といえば誰?

また台風が来るらしい。
前回の台風のときはバイト終わりがちょうど雨が激しく降っている時間帯で、傘をさしていたにも関わらず腕や靴やスボンの裾なんかがびしょ濡れになった記憶がある。台風が過ぎ去ったあと、てっきり晴れると思っていた翌朝はどんよりと曇っていて、また雨が降り、それから数日間はそんな天気が続いて、台風一過なんてまるでなかったので雨の好きな僕でもさすがに憂鬱になった。今回はどうなるんだろうか。





ゴーゴリの「死せる魂」の新訳が最近になって河出書房から出版された。
「死せる魂」は長らく絶版だったので、読みたくてもなかなか手に入らなくて困っていた小説のひとつだった。だからこの新訳の発売には本当に嬉しかった。



おとといの夕方ころにアパートを出て、近くの本屋へ向かった。お目当てはもちろん「死せる魂」と、あとこの前のNHKでやっていた漫勉で知った三宅乱丈の「イムリ」という漫画も買うつもりだった。
三宅乱丈という漫画家の存在は漫勉を見るまでまったく知らなくて、なぜこんなじぶん好みの漫画を描くひとを知らなかったのかと、悔しいというかなんというか、本当に、この世は知らないことだらけだなあということを痛切に感じた。





一軒目の本屋にはどちらも置いていなかった。
この店は半年前くらいに潰れた本屋の跡地にまた別の本屋が入ったところで、客の僕にとっては、ただ店の名前が変わっただけで品揃えも内装もほぼなにも変わっていないのでこの店もまた潰れるんだろうなと思っているのだけど、前の店と唯一違うところは、店頭でなんとなくオシャレ感のある観葉植物なんかを売っているところだろう。
久しぶりに行って僕はびっくりしてしまった。一瞬、ここ何屋だよと考えてしまうくらい、観葉植物の置かれているスペースは広かった。そのかわりに新刊の置かれているスペースが狭くなっていて、なんか、もう、本当にここは何屋だよと呆れてしまった。観葉植物が店頭を飾り、本が隅に押しやられている本屋。当然ながらそんな本屋なのか花屋なのかもわからない店に「死せる魂」が売ってるわけもなく、「イムリ」もなかったので二軒目へ。





二軒目にもどちらも置いていなかった。
あまり来ることがない店なので、海外文学の棚がどこにあるかもよくわからず探すのも面倒なので店員に聞いて検索してもらった。
「すみません。ゴーゴリの死せる魂ってありますか?」
すると、なかなか検索結果がでてこない。すこしイライラしながら待っていると店員が「タイトルはこれで本当にあってます?」と聞かれたので、滑舌の悪い僕はもしかしたら聞き間違いされてるのかなと思いつつ見たパソコンの画面に、愕然とした。
店員はタイトルの項目にゴーゴリと打っていたのだ!
嘘だろ!!?ゴーゴリ知らないの!!?
僕は思わず叫びそうになった。読んだことなくても名前くらいは知ってるだろ!!?本に関心のないひとならともかく、一応、本を売ることに携わっている人間がゴーゴリの名前すら知らないなんて!!それともおかしいのは僕なのか?ゴーゴリの名前すら知らないなんておかしいという僕のほうがおかしいのか?ていうかタイトルにゴーゴリを入力したってことは、死せる魂はどこに入力するつもりだったんだ?作者か?シセル・タマシィーっていう外国の作者だとでも思ったのか?誰だよそいつ。すこし面白そうな小説書きそうな名前じゃねえかシセル・タマシィー。
店員は30代後半くらいの女性で、冴えないメガネをかけていかにも文系な雰囲気を漂わせているくせに、ゴーゴリを知らない。そのメガネをかち割ってやりたかった。





ショックを受けつつ、三軒目へ。
ここになかったら諦めて新宿の紀伊国屋書店にいこうと思っていたら、1冊だけ置いてあって、見つけた瞬間僕はその場に崩れ落ちそうになった。
なんとか無事に「死せる魂」を手に入れ、「イムリ」はBOOK・OFFで買った。
アパートに帰り、早速読もうと死せる魂を袋からだして手に取ると、帯を金井美恵子が書いていて、そこにはこんなことが書かれていた。




私たちは小説に対して、どうしてこうも簡単に健忘症兼忘恩の徒になれるのか?


持家政策という国策のせいで、壁面を飾るべく、知的で見栄えのする家具の一種として、各出版社がこぞって「世界文学全集」を出版し、家長や主婦たちが競って買い求めた時代には、「魅せられた魂」も「死せる魂」も区別はつける必要はなかったものの(!)、ゴーゴリの名くらいは知っていた。第一、ゴーゴリを読んで、小説を書いた作家だって存在(多くはないけれど)したのだった。
時は過ぎ、世界文学としてのロシアと言えば、眼にするのはドストエフスキーのみという乏しい時代の読書上の貧しき人々の時代が続いた。(以下略)



ここに書かれている、読書上の貧しき人々の時代というものを(ちなみにドストエフスキーの小説のひとつに『貧しき人々』というタイトルの小説がある。魅せられた魂の作者はたしかロマン・ロランだったはず)身をもって体験した僕は、この金井美恵子の言葉を噛み締めながらしばらく呆然としてしまった。


また未知の小説が読めるのはすごく嬉しい。




では、また。